一口(いもあらい)は、京都府の南部、久御山町の伏見区向島との境界付近にある地名
かつての巨椋池の西岸あたりにあり、合戦の攻防備上、かつ交通上において特に重要な要所だった
万葉の古歌にも詠まれ、文人墨客たちにその水郷風景を愛でられた景勝地だった
現在では、「東一口」「西一口」などに、その名前が残っている
宇治川・木津川・桂川が流入する巨椋池のそばに位置し京都南部の要衝の地だった
「平家物語」や「吾妻鏡」「承久記」「太平記」「後愚昧記」などに、合戦の地として登場する、自然の城郭であった
豊臣秀吉が伏見城を築城するときに、巨椋池周辺も大きく変化し、
集落は、巨椋池の高台のある大きな島に移され東西の「西一口村」「東一口村 」に分かれた
東一口の集落は、巨椋池にあった細長い中州に沿って古い建物の残る町並みが続き、
細長い集落の両脇には、干拓で整備された排水路の前川と古川が流れている
<漁業権>
鳥羽上皇の時代、東一口村、小倉村、三栖村、弾正村の四ヵ郷に漁業権を賜り、
東一口村は、特権的な漁業権を持ち、巨椋池の7割を占有する漁業集落だった
<旧山田家住宅>
東一口にある、巨椋池の漁業者の代表だった大庄屋の遺構
江戸時代後期に建てられた屋敷と長屋門・長塀(いづれも国の登録有形文化財)が残っている
<安養寺>
山田家のすぐ近くにある寺院
十一面観音菩薩が祀られている
<大池神社>
東一口の集落の近くの干拓地にある
<大池の碑>
巨椋池の跡地を示すもの
古来から「ひとくち」「一口」「いもあらい」「芋洗」などと呼称・記されてきており、
それらが混合されて、「一口(いもあらい)」となったといわれる
<忌み祓い(いみはらい)>
巨椋池の西岸の湿地帯であったため、洪水が頻繁に起き、そのために疫病が流行った
その災いを身を清め払うという意味の「忌み祓い(いみはらい)」から「いもあらい」に訛ったものといわれる
<稲荷神社>
庖瘡平癒の神社として信仰を集めていた村の入口にあった神社
庖瘡(ほうそう)(天然痘)・痘痕(とうこん)のことを「イモ」とも称され、「アライ」とは、払う(治す)を意味することから
「いもあらい神社」と称されるようになったといわれる
<村への出入口>
村が、北・東・南の三方を巨椋池によって囲まれており、村への出入口は、西の一か所のみだったことから
「一口」と記されるようになったといわれる
「山城名勝志(1711年(皇紀2371)正徳元年)には、
三方が沼(巨椋池)であって、入口が、その地のみの一か所であったことから「一口」と書かれたと記されている
「山城国久世郡御牧郷村名宮寺初記(1828年(皇紀2488)文政11年)」の「両一口村名の初」の項には
「往古ハ両一口村淀魚の市ニ有りし時、三方ハぬまニて一方より入口あり、これに依り「ひとくち村」と記ス、
天正17年4月 太閤御城を築キたまう前ニ大地の高キ嶋え立のき、此時より西と東え別れ「西一口村」、「東一口村 」と申す也」と
記されている
<用明天皇>
用明天皇が、宇治田原へ行幸されたときに、神楽から勢田神社へ流れる一口川(ひとくちがわ)に歌を記した短冊を流された
それを、淀の漁師が引き上げ、宮中へ届けたところ、歌に読まれた川の名から、その地名に「一口」と賜ったといわれる
<豊臣秀吉>
豊臣秀吉が、伏見城で宴を開いたとき、和歌を記した短冊を宇治川に流したところ、
短冊が、この地に流れついたところ、大鯉が現れて、その短冊を一口で飲み込んでしまったためといわれる
<弘法大師>
弘法大師が、巨椋池のそばを通りかかったとき、洗い物をしていた農夫に「何を洗っているのか」と尋ねたところ、
農夫は「芋である」と答えて、芋を一口で食べてしまったからといわれる
<石清水八幡宮>
明治時代初期まで、巨椋池で捕れた鯉を石清水八幡宮へ献上されており、
「一咫鯉一尾」(一咫は約18cm)と目録がつけられていたのを、「一口から鯉一尾を献上」と読み違えたためといわれる
<景観>
巨椋池には大小無数の島洲があり、芋を洗うような景観であったことから「芋洗」と称されるようになった
<巨椋池>
四神相応之地である平安京の南の朱雀の地形上のシンボルとされた
京都府の南部、現在の京都市伏見区南部・宇治市西部・久御山町にまたがる場所にあった、湖に匹敵する大きな池
周囲約16km、水域面積約800haあり、現在「池」と称される最大の湖沼である「湖山池」よりも広かった
昭和初期に、干拓事業によって大規模な農地に変えられた