帷子ノ辻(かたびらのつじ)は、右京区太秦の西の地域の名称
嵐電 帷子ノ辻駅があり、嵐山線と北野線が分岐するところ
嵯峨天皇の壇林皇后の葬送のとき、棺を覆っていた帷子が風に吹かれて飛び散ったのが名前の由来といわれる
上嵯峨、下嵯峨、太秦、常盤、廣澤(ひろさわ)、愛宕などへの分岐点で、北側にばかりに道が延びて、南側に道がないことから
「かたびら」と称されるようになったともいわれる
<太秦帷子ヶ辻町(うずまさかたびらのつじちょう)>
檀林皇后の棺を戸板にのせて葬送の途中、この辻で、突風により棺に覆ってあった帷子が飛び散ったといわれる
帷子は、絹や麻糸で織った単衣仕立ての布で、夏の汗取りとして着用した着物のこと
このことから「帷子ケ辻」と称されるようになったといわれる
<帷子辻(かたびらがつじ)>
現在の帷子ノ辻付近にあったといわれるところ
檀林皇后の亡骸が遺棄されたといわれる辻
平安時代初期
檀林皇后の美貌に、恋慕する人々が後を絶たず、修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされたといわれる
こうした状況を長く憂えてきた檀林皇后は、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって永遠なるものは一つも無い、
という「諸行無常」の真理を、自らの身をもって示して、人々の心に菩提心を呼び起こそうと、
「自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよ」と遺言を残した
その遺言により、檀林皇后の遺体は辻に遺棄され、日に日に腐り、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、
白骨となって朽ち果てたといわれ、人々はその様子を見て世の無常を知り、僧たちも妄念を捨てて修行に打ち込んだといわれる
その檀林皇后の遺体が置かれた辻が、経帷子(死装束)にちなんで、「帷子辻」と称されるようになったといわれる
<「都名所図会」>
江戸時代の地誌によると、
「材木町の東にあり、上嵯峨、下嵯峨、太秦、常盤、廣澤(ひろさわ)、愛宕等の別れ」と記されている
<帷子ノ辻駅>
嵐電の嵐山本線と北野線の分岐する駅
付近町名は「ヶ」が、駅名には「ノ」が用いられている
<大映通>
広隆寺から帷子ノ辻までの商店街