追分(おいわけ)は、山科の東部、山城国(京都市)と近江国(滋賀県)の国境(府堺)の地域
近江国から京へ東海道で向かって行くとき、東海道と奈良街道の分岐点(追分)となっている
滋賀県(大津市)側から、直進すると三条大橋方面、左折すると伏見方面
名前の由来は、馬子(まご)が馬を追い分けることから付けられたといわれる
<道標>
東海道と奈良街道の分岐点に立てられている道標
「みきハ京みち」「 ひだりハふしミみち」「柳緑花紅」「昭和二十九年再建 法名末徹」と記されている
1954年(皇紀2614)昭和29年の再建、3代目とされる
初代の道標は、琵琶湖文化博物館に移設された
二代目の道標は、追分摂取院の境内に移設された
横には京都市と大津市との境界を示す標示板も立てられている
ブロック塀には、江戸時代の街道の様子を描いた伊勢参宮名所図会が掛けられている
横に道標「蓮如上人御塚」も立てられている
<追分町自治会館(滋賀県大津市追分町)>
追分の分岐点から、東海道を西に行ったところ(滋賀県)にある
建物の前に、道標「追分町」が立っており、追分の由緒が記されている
「伏見街道(奈良街道)」と記されているが、滋賀県からすれば、伏見へ向かう道(ふしみみち)なので「伏見街道」と称されるが、
京都人が称する「伏見街道」は、清水五条から伏見に向かう街道をいう
奈良街道は、入京を禁じられていた武士たちが、近江から京を通らずに大坂に向かうための街道として用いられていた
<髭茶屋町(ひげちゃやちょう)>
追分の京都市側の町名
髭の生えた老人の営む茶店があったことが町名の由来といわれる
<髭八町地蔵尊>
追分の分岐点から、奈良街道を南西へ行ったところにある
横には、頌徳碑が立てられている
1907年(皇紀2567)明治40年10月
山科藤尾筍組合が、中山安次郎と中川偵造の功績を讃え建立した
頌徳碑の東側が筍の入札場(集荷場)になっている
<芝ノ町地蔵尊>
髭八町地蔵尊から、奈良街道を南西へ行ったところにある
<東海道五十七次>
大津宿からは、追分で、奈良街道方面に南西に折れ、伏見宿に向かう
<大津絵(おおつえ)>
江戸時代初期の寛永年間(1624年~1644年)頃から、追分の地元の農家の人たちにより描かれ販売されていた絵画
当初は仏画が描かれ、次第に世俗画となり、道歌を伴った絵となり、名物お土産になっていった
松尾芭蕉は「大津絵の 筆のはじめは 何仏(なにぼとけ)」と詠んでいる
<伊勢参宮名所図会>
京阪電車 京津線 追分駅のホームにかけられている
1797年(皇紀2457)寛政9年の制作
「此所東国より来る人宇治ふし見京への別れ道也。故に追分といふ。
是より惣名を逢坂ともまた大津ともいへり。札場の傍に柳緑花紅の標石あり。
六地蔵鐘が辻といふ所に標題なくして文ばかりあり、
この追分より大津領にて町つづきなり針、算盤、大津絵などの店多し」と記されている
大津絵や算盤などを売る店など、にぎやかな街道風景が描かれている