当尾(とおの)は、木津川市内東南部の加茂町にある地域名
京都府の南端で、奈良県と境を接する
文化的には古くから南都(奈良)との関わりが強く、奈良仏教の俗化を嫌う僧侶たちが穏遁の地として草庵を結び、
念仏に専心したところといわれる
当尾磨崖仏文化財環境保全地区(とうのまがいぶつぶんかざいかんきょうほぜんちく)は、京都府文化財保護条例に基づく
木津川市東南部にある京都府指定の文化財環境保全地区である
1985年(皇紀2645)昭和60年5月15日
相楽郡加茂町大字岩船/大字西小の地域が指定される
浄瑠璃寺と岩船寺を結ぶ山道約1.5kmを中心として、平安時代から室町時代に、自然の岩壁に直接彫られた磨崖仏や
石塔が点在し、その石仏群は、「当尾の石仏」と称される
<浄瑠璃寺境内>
門前角塔婆(丁石)
丁石は、加茂の里から浄瑠璃寺まで1丁(約109m)毎に浄域に近づくときの笠塔婆
それぞれ上部に梵字が刻まれている
現在は、全部で4本のみ残っている
1355年(皇紀2015)正平10年/文和4年の銘がある
石鉢(本堂前)
石臼ともいわれる
1296年(皇紀1956)永仁4年の銘がある
石燈籠(本堂前)(重要文化財)
典型的な六角型大和系燈籠
発掘調査により、元は本堂寄りにあったものが後の改築時に現在の場所に移されたことが明らかなった
南北朝時代の作
石燈籠(塔前)(重要文化財)
本堂前のものと同じ形式
蓮弁などの彫刻も優れているといわれる
1366年(皇紀2026)正平21年/貞治5年の銘がある
六字名号板碑
名号板碑とは、阿弥陀如来像の代わりに「南無阿弥陀仏」の六字名号を刻んだ石柱で、供養などで建てられたもの
当尾でも比較的新しいもの
1625年(皇紀2285)寛永2年の銘がある
石仏群
西小坂口橋の架替え工事で発見された五輪塔や石龕仏などが集められて安置されている
石龕仏には、地蔵と弥陀と薬師、地蔵と十一面観音菩薩、弥陀と十一面観音菩薩などの組合せもある
鎌倉時代以降の作
<岩船寺境内>
門前石風呂
山門の階段下に置かれており、ここで修行僧が身を清めたといわれる
鎌倉時代の作
門前地蔵石龕仏
門前左側にある
南北朝時代の作
五輪塔(重要文化財)
反花座を持つ大和系五輪塔
当尾地区で最大の五輪塔
鎌倉時代後期のもの
地蔵石仏(厄除け地蔵)
堂内に安置されている、二重の光背を持つ石地蔵
鎌倉時代後期の作
石室不動明王立像(重要文化財)
寄棟造の石室の奥に、右手に剣、左手に羂索を持ち火焔を背負う不動明王が立っている
眼病に霊験があるといわれる
1312年(皇紀1972)応長2年の銘がある
十三重石塔(重要文化財)
大きな基壇の上に立つ、重厚感ある石塔
初重軸部の四仏は梵字で表されている
鎌倉時代中期の作
一石五輪塔
室町時代の作
五輪塔(三重塔脇)
鎌倉時代の作
<浄瑠璃寺道丁石笠塔婆>
加茂の里から浄瑠璃寺まで1丁(約109m)毎に建てられた丁石で、残っている4本の一つ
上部に梵字が刻まれている
1373年(皇紀2033)文中2年/応安6年の銘がある
<ツジンドの焼け仏>
西小三叉路近くの旧道に立っている
「ツジンド」とは「辻のお堂」のことだが、火災で焼失した
中央に阿弥陀如来、両脇に錫杖を手にした十一面観音菩薩と地蔵菩薩を従えている
浄土信仰と地蔵信仰が合わさったもの
1323年(皇紀1983)元亨3年の銘がある
<西小墓地石仏群>
かつては周辺に散在していた無縁墓や石仏が集められている
室町時代以降の作
<西小地蔵石仏(たかの坊地蔵)>
小さな石仏群の中の、舟形の光背の矢田型の地蔵菩薩
錫杖を持たない姿の地蔵菩薩で、一般的に古いタイプのものとされている
頭の周りには蓮弁の光背が刻まれている
鎌倉時代中期の作
<西小五輪塔二基(重要文化財)>
西小墓地入口に立つ
当初はこの墓地の総供養塔として建てられたもの
向かって左側の反花座は、側面を三区に分けた「格狭間(こうざま)」と称される装飾がある
右側は反花座のみとなっている
鎌倉時代の作
<長尾阿弥陀磨崖仏>
連弁の台座に座り、両手を腹部の前で定印を結んだ阿弥陀如来坐像
像の頭上には、斜めに割れ目がある
1307年(皇紀1967)徳治2年の銘がある
<浄瑠璃寺道三体磨崖仏>
元は磨崖仏だったものを、府道拡張工事に伴い移動されたもので、その際一部が破損している
右側は、錫杖を持った地蔵菩薩坐像
室町時代の作
<浄瑠璃寺奥ノ院瑠璃不動>
かつて、線彫りされた磨崖仏が、大水で大岩が割れ滑り落ちてしまい、線状に刻まれている不動明王の痕跡が残っている
その後、丸彫りの不動明王像と矜羯羅(こんがら)、制多迦(せいたか)の二童子の「不動三尊」が祀られている
1296年(皇紀1956)永仁4年の銘がある
<浄瑠璃寺赤門跡水呑み地蔵>
かつて浄瑠璃寺の南大門があったところ
錫杖を持つ姿の地蔵菩薩が立っており、傍らには水が湧き出ている
鎌倉時代中期の作
<藪の中三尊磨崖像>
中央に地蔵菩薩立像と十一面観音菩薩立像、向かって左に阿弥陀如来坐像が彫られている非常に珍しい配置の石仏
1262年(皇紀1922)弘長2年の銘があり、当尾地区最古級の石仏とされる
<首切地蔵(東小阿弥陀石龕仏)>
釈迦寺跡に立つ
かつて処刑場にいたため、「首切地蔵」と称されるようになったといわれる
1262年(皇紀1922)弘長2年の銘があり、当尾地区最古級の石仏とされる
<東小墓地六字名号板碑>
当尾地区で最大の板碑
頂上に阿弥陀如来の種子「キリーク」が刻まれている
1497年(皇紀2157)明応6年の銘がある
<東小墓地地蔵石仏>
東小墓地の階段を上がったところ左側にある
1620年(皇紀2280)元和6年の銘がある
<東小墓地五輪塔>
東小墓地の階段を上がったところ左側にあり、東小墓地の総供養塔
西小墓地の2基と同系で、基壇の上に蓮弁台座があり、その上に五輪が乗っている
当尾地区では、岩船寺のものに次ぐ大きさのもの
鎌倉時代の作
<大門石仏群>
竹藪の中や細い山道に、大門の阿弥陀寺跡や鎮守社近くにあった石仏・石塔などを集めて安置しなおしたもの
室町時代以降の作
<大門墓地六字名号板碑>
大門墓地に入って左手に立っている
極楽往生を願う念仏結衆により建てられた
墓地の奥に、地蔵菩薩と並び、もう一基の名号板碑がある
1552年(皇紀2212)天文21年の銘がある
<仏谷阿弥陀磨崖仏(大門の石仏)>
如来形大摩崖仏で、阿弥陀如来、弥勒如来、釈迦如来などの諸説がある
当尾地区で最大級の石仏とされる
かつては、真下まで行ける道があったが、現在は谷を隔てた道から拝される
平安時代末期の作といわれるが確定していない
<穴薬師>
数枚の板石の石龕の中に、薬壷を持った薬師如来の石仏が祀られている
向かって右に愛宕燈籠が立ち、周囲には室町時代の石仏が安置されている
耳病にご利益があるといわれている
鎌倉時代の作
<あたご燈籠>
三叉路に立つ
形式にとらわれない変わり燈籠
愛宕神は火を司っており、当尾では、お正月に、ここからおけら火をもらい雑煮を炊く風習があったといわれる
同型の燈籠が、穴薬師の前と岩船の集落にもある
江戸時代の作
<からすの壷二尊>
一つの岩に阿弥陀如来坐像と、面を変えて地蔵菩薩立像がある
双仏像は後に多数造顕されている
阿弥陀如来の横に線彫灯籠、火袋を彫り込み、そこへ燈明が供えられる珍しいもの
康永2年(1343年)の銘がある
<唐臼の壷(からすのつぼ)>
分岐点にある
岩の中央に15cmほどの穴が掘られた礎石が粉を挽く唐臼に似ていることから「からすの壷」と称される
1343年(皇紀2003)興国4年/康永2年の銘がある
<一鍬地蔵磨崖仏>
大きな岩肌の上部に、鍬で削り取ったような窪みの中に、高さ約1.5mの地蔵菩薩が線彫りされている
頭部から二重の光を放っている
かつては、笠石があったといわれる
鎌倉時代中期の作
<内ノ倉不動明王石仏>
一鍬地蔵磨崖仏の反対側の谷奥深くにある不動明王
1334年(皇紀1994)建武元年の銘がある
<笑い仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏)(京都府指定有形文化財)>
蓮台を持つ観音菩薩と合掌する勢至菩薩を従えた阿弥陀如来
上部の屋根石が廂となっており、風蝕の影響も少なく保存状況が良い
1299年(皇紀1959)永仁7年、伊行末の子孫の伊末行の銘がある
<ねむり仏(埋もれ地蔵)>
笑い仏の向かって左脇にある
右手に錫杖を持ち、半身を土のお布団にくるまれて眠る地蔵菩薩
笑い仏と同じ伊派の石工 行経の作といわれる
南北朝時代の作
<一願不動(岩船寺奥ノ院不動明王立像)>
ただ一つだけのお願いを、一心にお願いすれば、叶えてくださるという一願不動
高さ約1.2mで、右手には棍棒を持ち怒った顔をしている
1287年(皇紀1947)弘安10年の銘がある
<みろくの辻弥勒磨崖仏>
山際の巨岩に高さ約2.5mの弥勒如来が線彫りされている
笠置寺の本尊の弥勒磨崖仏(現在は焼失し光背が残る)を忠実に模写したもの
伊行末の子孫の伊末行の作
1274年(皇紀1934)文永11年の銘がある
<三体地蔵磨崖仏>
旧道沿いの岩肌にある
長方形の龕を彫りくぼめ、三体の地蔵菩薩が厚肉彫りされている
三体とも、左手に宝珠、右手に錫杖を持っている
過去、現在、未来をそれぞれ割り当てたもので、六地蔵信仰以前の地蔵信仰の一形態といわれる
鎌倉時代末期の作
<行者の背(岩船役行者石像)>
山岳修験道の開祖 役小角(えんのおずぬ)の像が祀られている
江戸時代の作
<岩船地蔵石龕仏>
行者の背から観音寺跡へ向かう道の途中、左手に下がる道の突き当たりの広場にある
笠石の乗った石龕仏がある
南北朝時代の作
<岩船観音寺跡六字名号板碑>
かつて観音寺があった広場に立つ
斉講による造立
1564年(皇紀2224)永禄7年の銘がある
<岩船観音寺跡笠塔婆>
金剛界の四方仏の種子が刻まれている
室町時代の作
<六体地蔵(岩船墓地六地蔵石龕仏)>
1つの石龕に六体揃って彫られている珍しいもの
死者の霊が六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)に迷い苦しまないように、それぞれの道に地蔵菩薩が
救いの手をさしのべている
南北朝時代の作
<大畑大福寺地蔵石仏>
現在、集会所になっている大福寺の前の覆屋の中に安置されている
1441年(皇紀2101)永享13年の銘がある
<大畑墓地石仏群>
墓地の移転時に、名号板碑や石仏を集めて安置したもの
1559年(皇紀2219)永禄2年の銘がある
<赤地蔵(勝風墓地地蔵石仏)>
勝風墓地参道にある
赤っぽい花崗岩でできている
1565年(皇紀2225)永禄8年の銘がある
<迎え地蔵(勝風墓地地蔵石仏)>
勝風墓地奥にある
棺を載せる台の前にある石仏は「受取地蔵」「迎え地蔵」などと称される
1571年(皇紀2231)元亀2年の銘がある
<青地蔵・北向き地蔵(勝風地蔵石仏)>
勝風墓地から集落に向かう道の左手、杉木立のところにある
青っぽい石でできている
仏像が北向きに置かれることは非常に珍しいといわれる
室町時代の作
<高去集会所六字名号板碑>
高去集会所の脇に3基の名号板碑がある
かつて阿弥陀寺が建っていたところで、板碑は斎講や念仏衆により建立されたもの
室町時代の作
<森八幡線刻不動明王・毘沙門天>
森八幡宮の拝殿右奥に、不動明王と毘沙門天が安置されている
「ズンド坊」の巨人伝説がある
1326年(皇紀1986)嘉暦元年の銘がある
<ズンド坊の杖(ズンド坊笠塔婆)>
森八幡宮の裏手にある
笠塔婆に2つの龕が縦に並び、阿弥陀如来と地蔵菩薩が彫られている非常に珍しい形式
周囲には小さな石仏が並んでいる
「ズンド坊」の巨人伝説に由来する
鎌倉時代後期の作
<返り不動(瀬谷不動明王石龕)>
石龕の奥に安置されている不動明王
火焔の彩色が残っている
室町時代の作
<大蔵墓地種子十三仏板碑(墓地入口)>
右下からジグザグに、不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観世音菩薩・勢至菩薩・
阿弥陀如来・阿しゅく如来・大日如来・虚空蔵菩薩の13回の追善供養を司る仏を表す梵字が並んでいる
同様の板碑が、千日墓地にもある
1563年(皇紀2223)永禄6年の銘がある
<六地蔵石仏(墓地入口)>
十三仏板碑の左に並んである
板碑の上半分に阿弥陀如来が浮彫りされている珍しいもの
1710年(皇紀2370)宝永7年の銘がある
<大蔵墓地五輪塔>
大蔵墓地の奥の方にある
大和系造
鎌倉時代後期の作
<大蔵墓地地蔵石仏>
<大蔵墓地阿弥陀板碑>
墓地入口にある
<涼み岩>
森八幡の神さんが涼みに来られるという大岩
この上流は神聖域とされ、汚れたものが渡ることは禁じられていた
<宝珠寺地蔵石仏>
当尾小学校の向かいの禅宗寺院の境内にある
1499年(皇紀2159)明応8年の銘がある
<宝珠寺五輪塔>
当尾小学校の向かいの禅宗寺院の境内にある
岩船寺のものよりやや小さく、、地輪が少し高くなり、蓮弁台座に乗っている
<辻地蔵不動明王磨崖仏>
宝珠寺前の小道を下った三叉路に辻堂に安置されている不動明王
地蔵像は舟形光背、錫杖、宝珠をもつ室町時代のもの
不動明王像は岩に彫られた小型の磨崖仏
<金蔵院六字名号板碑>
右に「三部経一結衆等敬白」、中央に梵字の六字名号、左に大永六年(1526)の年号が刻まれている
文字をはっきり読み取ることができる貴重なもの
1526年(皇紀2186)大永6年の銘がある
<金蔵院十三重石塔>
室町時代以降の作
<千日墓地十三重石塔(重要文化財)>
千日墓地入口すぐに立っている
基段部に、西側 阿弥陀如来、東側 薬師如来、南側 弥勒菩薩、北側 釈迦如来の4体が彫られている
1298年(皇紀1958)永仁6年の銘がある
<千日墓地阿弥陀石仏(西側六地蔵)>
「天正八庚辰十月十五日」(1580年(皇紀2240)天正8年)の銘がある
<千日墓地双仏石>
右に阿弥陀如来、左に地蔵菩薩が彫られた石龕仏
屋根石、宝珠が揃っており、当初は扉が付属していた形跡がある
当尾地区で最大の双仏石
南北朝時代の作
<千日墓地阿弥陀三尊石仏>
1つの光背に阿弥陀三尊が彫られている善光寺型石仏
前には「南無阿弥陀仏」と彫られた六字名号板碑があり、左右に三体ずつ、六体の地蔵菩薩が並んでいる
室町時代の作
<千日墓地種子十三仏板碑>
<千日墓地受取地蔵>
<千日墓地五輪塔>
<千日墓地石の鳥居>
<名前の由来>
室町時代以前は、「小田原」と称されていた
丘陵の尾根の間に寺々の塔が見えたことから「塔ノ尾」と称されたのが語源ともいわれる