五条大橋(ごじょうおおはし)は、国道1号の五条通に鴨川に架かる橋
下京区と東山区の境界にあたる
長さ:67m
幅 :35m
構造:鉄筋コンクリート 3径間連続鋼プレートガータ
高欄:石造
<擬宝珠>
高欄の親柱の上に取り付けられる飾り
ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも称される
江戸時代のものが復元されている
1878年(皇紀2538)明治11年、廃仏毀釈によって全て取り外される
1880年(皇紀2540)明治13年、明治天皇が五条大橋を渡られたときに、擬宝珠が無くなっていることを指摘され、元に戻される
欄干は、北側と南側に7本ずつ、計14本ある
<北側東から1本目>
(上段)
五条大橋は、五条通の戦時建物疎開跡に幅五十米の道路となり、昭和二十七年国道に指定されてから、
京都市交通動脈の様相を帯びてきたので、ここに現代技術と美の粋を集めた長さ六十七米幅三十五米の
鋼桁橋として架設された
(下段)
影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和した文化観光都市の
一つの象徴といえよう、疏水橋もこれにならい擬宝珠二筒を追補した
昭和三十四年三月 京都市長 高山義三
<2本目>
(上段)
昭和二十七年五月 補充六個之内 京都市
(下段)
請負人 錺師 森本安之助 鋳造師 金井忠義
<3本目>
昭和二十七年五月 補充六個之内 京都市
<4本目>
(上段)
昭和十年六月の洪水に流失した六個を補充鋳造する
昭和二十七年五月 京都市
(下段)
請負人 錺師 森本安之助 鋳造師 金井忠義
<5本目>
明治十年改修五條橋之際除擬寶珠當本年重修復舊形偶壊二珠因新造補之云
明治廿七年一月
京都府
<6本目>
?陽五條石橋
正保二年し酉十一月吉日
奉行 芦浦觀音寺 舜興 小川藤庄衛門尉正長 大坂讃岐屋 岡田太郎左衛門道治
<7本目>
五條橋舊在五條大路東今松原也 中古荒殘 天正年中遷六條坊門名 ?仍舊正保以來屡加修營
明治十年撤擬寶珠 改作二十七年復舊式 今回造營分大小二橋補鑄擬寶珠二個完堅有加因勒其事
明治四十四年十一月 京都府
京都住雨宮宗七?寿?製造
<南側東から1本目>
(上段)
五条大橋は、五条通の戦時建物疎開跡に幅五十米の道路となり、昭和二十七年国道に指定されてから、
京都市交通動脈の様相を帯びてきたので、ここに現代技術と美の粋を集めた長さ六十七米幅三十五米の
鋼桁橋として架設された
(下段)
影を鴨水に染め東山の翠に配した擬宝珠付石造高欄は、まさに王朝と現代を調和した文化観光都市の
一つの象徴といえよう、疏水橋もこれにならい擬宝珠二筒を追補した
昭和三十四年三月 京都市長 高山義三
<2本目>
(上段)
昭和二十七年五月 補充六個之内
京都市
(下段)
請負人 錺師 森本安之助 鋳造師 金井忠義
<3本目>
(上段)
昭和二十七年五月 補充六個之内
京都市
(下段)
請負人 錺師 森本安之助 鋳造師 金井忠義
<4本目>
(上段)
昭和二十七年五月 補充六個之内
京都市
(下段)
請負人 錺師 森本安之助 鋳造師 金井忠義
<5本目>
明治十年改修五條橋之際除擬寶珠當本年重修復舊形偶壊二珠因新造補之云
明治廿七年一月
京都府
<6本目>
?陽五條石橋
正保二年し酉十一月吉日
奉行 芦浦觀音寺 舜興 小川藤庄衛門尉正長 大坂讃岐屋 岡田太郎左衛門道治
<7本目>
銘無し
<牛若丸と弁慶>
大男の武蔵坊弁慶は、太刀千本を奪い取ろうと、夜ごとに街を駆けめぐり999本の太刀を手に入れる
最後の1本を奪い取るために五条大橋で待ち構えていたところに、法師姿の牛若丸こと源義経が通りかかる
五条大橋の上で一騎打ちとなるが、弁慶は、欄干を飛び渡り身のこなしも軽い牛若丸に翻弄され太刀も奪えず負けてしまう
五条大橋の西側、河原町通との交差点近くのグリーンベルト内に、弁慶と牛若丸が闘う様子の石像がある
<牛若ひろば>
牛若丸と弁慶の闘いにちなんで、五条大橋西橋詰にある公園
<松原通と五条通>
平安京の五条通は、2つ筋北の現在の松原通にあたり、
平安京の五条大橋は、1つ上流にかかる現在の松原橋のことであった
牛若丸と弁慶の闘いは、現在の松原橋であったとされる
<桃山時代の遺構>
京都国立博物館の西の庭
豊臣秀吉の五条大橋の橋脚3本、橋桁2本が立体的に組まれ保存されている
橋脚には「津国御影 天正拾七年 五月吉日」の刻銘が残っている
<扇塚>
五条大橋の西側の畔
「御影堂(みえどう)」と称される時宗 新善光寺があり、ここで「御影堂扇」と称される京扇子が作られていた
付近には扇屋が多く建ち並んでいたといわれる
<妙満寺>
天正年間(1573年〜1592年)の豊臣秀吉の五条大橋の橋脚の一部が置かれている