会津藩(あいづはん)は、陸奥会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩
幕末維新では、藩主 松平容保が初代 京都守護職を任じられ、金戒光明寺を会津藩の本陣とした
鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争では、朝敵・反政府軍となり、主に薩摩藩と長州藩が率いる明治政府軍に攻められる
<蒲生家>
91万9千石
初代 蒲生氏郷(伊勢松坂12万石) 正四位下 参議
藩主期間:1590年(皇紀2250)天正18年 - 1595年(皇紀2255)文禄4年
2代 蒲生秀行(ひでゆき)(蒲生氏郷の次男) 従三位 飛騨守 侍従
藩主期間:1595年(皇紀2255)文禄4年 - 1598年(皇紀2258)慶長3年
<上杉家>
120万石
初代 上杉景勝(うえすぎかげかつ)(越後春日山) 従三位 参議
藩主期間:1598年(皇紀2258)慶長3年 - 1601年(皇紀2261)慶長6年
<蒲生家>
外様 60万石
2代 蒲生秀行(ひでゆき)(宇都宮12万石より再任) 従三位 飛騨守 参議
藩主期間:1601年(皇紀2261)慶長6年 - 1612年(皇紀2272)慶長17年
3代 蒲生忠郷(たださと)(蒲生秀行の長男) 従三位 下野守 参議
藩主期間:1612年(皇紀2272)慶長17年 - 1627年(皇紀2287)寛永4年
<加藤家>
外様 40万石
初代 加藤嘉明(かとうよしあき)(伊予松山) 従四位下 左馬頭
藩主期間:1627年(皇紀2287)寛永4年 - 1631年(皇紀2291)寛永8年
2代 加藤明成(かとうあきなり)(加藤嘉明の長男) 従四位下 式部少輔 侍従
藩主期間:1631年(皇紀2291)寛永8年 - 1643年(皇紀2303)寛永20年
<会津松平家(保科家)>
親藩 23万石
初代 保科正之(まさゆき)(出羽山形藩)(徳川秀忠の四男) 正四位下 肥後守 左近衛中将
藩主期間:1643年(皇紀2303)寛永20年 - 1669年(皇紀2329)寛文9年
2代 保科正経(まさつね)(保科正之の四男) 従四位下 筑前守
1669年(皇紀2329)寛文9年 - 1681年(皇紀2341)天和元年
3代 保科正容(松平正容)(まさかた)(初代 保科正之の六男) 正四位下 肥後守 左近衛中将
1681年(皇紀2341)天和元年 - 1731年(皇紀2391)享保16年
4代 松平容貞(かたさだ)(松平正容の八男) 従四位下 肥後守 左少将
1731年(皇紀2391)享保16年 - 1750年(皇紀2410)寛延3年
5代 松平容頌(かたのぶ)(松平容貞の長男) 正四位下 肥後守 左中将
1750年(皇紀2410)寛延3年 - 1805年(皇紀2465)文化2年
6代 松平容住(かたおき)(松平容貞の弟 松平容詮の長男) 従四位下 肥後守
1805年(皇紀2465)文化2年
7代 松平容衆(かたひろ)(松平容住の次男) 従四位下 肥後守 左少将
1806年(皇紀2466)文化3年 - 1822年(皇紀2482)文政5年
8代 松平容敬(かたたか)(美濃高須藩主 松平義和の三男) 正四位下 肥後守 左中将
1822年(皇紀2482)文政5年 - 1852年(皇紀2512)嘉永5年
9代 松平容保(松平容敬の甥)(美濃高須藩主 松平義建の六男) 正三位 参議
1852年(皇紀2512)嘉永5年 - 1868年(皇紀2528)慶応4年
10代 松平喜徳(のぶのり)(水戸藩主 徳川斉昭の十五男)(徳川慶喜の実弟) 従四位下 若狭守
1868年(皇紀2528)慶応4年
<京都守護職>
徳川幕府により、京都の治安維持に当たらせるために作られた新しい職制
1862年(皇紀2522)文久2年8月1日
松平容保は江戸城へ登城し、徳川家茂から京都守護職を任じられ、京都の治安維持に務める
同年12月24日午前9時頃
松平容保は、家臣約1000名を率いて三条大橋に到着
京都所司代や京都町奉行所の出迎えを受けて、本陣となった金戒光明寺に入る
会津藩主 松平容保が初代 京都守護職を任じられ、金戒光明寺を会津藩の本陣とした
<会津藩殉難者墓地>
金戒光明寺の山上墓地北東の塔頭 西雲院に、約300坪の敷地がある
1862年(皇紀2522)文久2年〜1867年(皇紀2527)慶応3年の5年間に亡くなられた237霊と、鳥羽・伏見の戦いの戦死者115霊を
祀る慰霊碑(1910年(皇紀2570)明治43年3月建立)がある
蛤御門の変(禁門の変)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に3ヶ所に分けられ22霊が祀られている
墓地には武士のみではなく、使役で仕えた者や婦人も祀られている
会津松平家が神道であったことで、約7割ほどの人々が神霊として祀られている
<侠客 会津小鉄のお墓>
会津藩殉難者墓地の西側の西雲院庫裡前にある
会津小鉄(本名:上阪仙吉)は、松平容保の口入れ屋として、裏では新選組の密偵として活躍した
鳥羽・伏見の戦いで、会津藩の戦死者の遺体が、鳥羽伏見の路上に放置されていたのを、子分約200名を動員し、
「朝敵」としての迫害も恐れず収容し、近くの寺院で荼毘に付し、回向供養したといわれる
<老齢年金制度>
1663年(皇紀2323)寛文3年
初代 保科正之は、日本初となる老齢年金制度を創設した
藩内の90歳以上の老人に、米を1日5合を支給した
<社倉制度>
1655年(皇紀2315)明暦元年
初代 保科正之は、凶作による飢饉に備えて社倉制度を創設する
藩で米を7000俵程買い入れて、低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして
凶作の備えとした
領内の23ヶ所に社倉が建設され、備蓄米は最大で5万俵になったといわれる
<会津藩邸跡>
堺町二条通下ル(京都御所の南)
<金戒光明寺>
会津藩主 松平容保が初代 京都守護職を任じられ、金戒光明寺を会津藩の本陣とした
<西雲院>
会津藩殉難者墓地がある
<京都守護職上屋敷跡>
上京区下立売通新町西入薮之内町
<伏見別院>
本堂で、鳥羽・伏見の戦いのとき、会津藩が宿泊していたことで、畳を楯に鉄砲の打ち合いがあったといわれ、大きな損害を受ける
<蛤御門>
尊王攘夷の長州藩の強硬派が中心に挙兵して約3000名の藩士が上洛し、御所を守る薩摩藩・会津藩など幕府軍と激戦になる
蛤御門付近が、一番の激戦地となり、「蛤御門の変(禁門の変)」と称される
<九条邸跡>
蛤御門の変(禁門の変)において、向かいの鷹司邸に立てこもる長州藩を攻撃するために九条邸に会津藩が陣取り、鷹司邸に向けて砲撃が行われた
<長谷川家住宅>
座敷の床柱に、会津藩藩士が宿泊したときの武具の擦れた傷跡が残っている