宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ
初代 京極高知の代は丹後国一国を領したため「丹後藩」とも称された
藩主は、京極家から本庄 松平家まで6家が代わっていく
藩庁は与謝郡宮津城(現在の宮津市)に置かれた
藩主は、京極家から本庄 松平家まで6家が代わっていく
<京極家>
外様 12万3千石
1600年(皇紀2260)慶長5年 ~ 1666年(皇紀2326)寛文6年
京極高知(たかとも)従四位下、丹後守・侍従
京極高広(たかひろ)従四位下、丹後守
分封により7万8千石に分けられる
京極高国(たかくに)従四位下、丹後守・侍従
<幕府直轄領>
1666年(皇紀2326)寛文6年 ~ 1669年(皇紀2329)寛文9年
<永井家>
譜代 7万3千石
1669年(皇紀2329)寛文9年 ~ 1680年(皇紀2340)延宝8年
永井尚征(なおゆき)従五位下、右近大夫
永井尚長(なおなが)従五位下、信濃守 奏者番
<阿部家>
譜代 9万9千石
1681年(皇紀2341)天和元年 ~ 1697年(皇紀2357)元禄10年
阿部正邦(まさくに)従五位下、対馬守
<奥平家>
譜代 9万石
1697年(皇紀2357)元禄10年 ~ 1717年(皇紀2377)享保2年
奥平昌成(まさしげ)従四位下、大膳大夫
<青山家>
譜代 4万8千石
1717年(皇紀2377)享保2年 ~ 1758年(皇紀2418)宝暦8年
青山幸秀(よしひで)従五位下、大膳亮
青山幸道(よしみち)従五位下、大和守
<本庄 松平家>
譜代 7万石
1758年(皇紀2418)宝暦8年 ~ 1871年(皇紀2531)明治4年
松平資昌(すけまさ)従五位下、伊予守
松平資尹(すけただ)従五位下、大隅守
松平資承(すけつぐ)従五位下、伊予守 寺社奉行
松平宗允(むねただ)従五位下、大隅守
松平宗発(むねあきら)従四位下、伯耆守・侍従 老中
松平宗秀(むねひで)従四位下、伯耆守・侍従 老中
松平宗武(むねたけ)従五位下、伯耆守
1869年(皇紀2529)明治2年
松平(本荘)家は、華族に列する
1884年(皇紀2544)明治17年
子爵となる
<丹後国>
中郡の7村
竹野郡の28村
与謝郡の84村
加佐郡の11村
<近江国>
栗太郡の1村
野洲郡の2村
甲賀郡の11村
蒲生郡の6村
明治維新後
与謝郡4村(旧幕府領)が加わる
<金引の滝>
宮津市滝馬の滝馬川の上流部にある滝
江戸時代
宮津藩の悪政に苦しむ農民が、金引不動尊の力を借りて滝水を業火に変えたといわれる「金引の滝火祭」が行われていた
<ちりめん>
宮津藩・峰山藩により、ちりめん織が保護助長され、丹後の地場産業として根付いた
<細川藤孝・細川忠興>
戦国時代の宮津城の城主