京見峠(きょうみとうげ)は、京都市北区鷹峯堂ノ庭町にある鷹峯街道(京都府道31号 西陣杉坂線)の峠
鷹峯木ノ畑町から、京見峠で北西に道なりに進むと杉阪北尾に至り、京見峠から北に超えると氷室の跡が残る氷室口に至る
京見峠の南側は大宮釈迦谷、北側は西賀茂鑓磨岩
平安京の造営のために杉の巨木を伐採して搬出するために造られた山道「長坂」にある
京の七口の一つ「長坂口」から若狭国など北国とを結ぶ
室町時代には関所もおかれた要所だった
昭和時代中期に「長坂峠」から「京見峠」に名称が変わり、それ以前の旧京見峠も要所として記録に残されている
京都市北区鷹峯堂ノ庭町にある鷹峯街道(京都府道31号 西陣杉坂線)の峠
京都市街地から比較的近いこともあり、道幅のわりには車の交通量が非常に多い
かつては夜景の名所とされ、夜間に渋滞することもあったといわれる
現在は、杉などの針葉樹が生い茂り、眺望が完全に遮られている
栂ノ尾の山崩れで、国道162号線が一部片側通行となったときには、迂回路として京見峠経由の車両が増加した
<島岡剣石の歌碑>
「うつせみの 寂しさ故におく山の 辛夷は白く 鎮もいて(うずもいて)咲く」
辛夷の花(こぶしのはな)の咲く頃に、長坂峠で詠んだ歌
右京区梅ケ畑奥殿町と梅ケ畑篝町の接するあたり、鳴滝と平岡、菖蒲谷間に存在した峠
現在の嵐山高尾ドライブウェイ中の菖蒲谷池と、鳴滝、平岡八幡宮を結ぶ元山道にあった
現在のハイキング道の四ツ井から東方向に数百mの岡の上と推定される
愛宕山を経由して丹波国へ通じる道であった
旧京見峠から鳴滝方面への道も「長坂」と記載されている
「名所官鳥巻五 峠之部」には
葛野群嵯峨鳴滝の西北に有。これは嵯峨仁和寺の西丹波より出る道なり、京を眼の下に見るゆへの名也
と記載されている
南北朝時代
1336年(皇紀1996)延元元年/建武3年6月
足利尊氏らに都を追われた後醍醐天皇方の兵が、都へ攻め入るための要所として、嵐ノ上高雄栂尾の京見峠に陣を張ったとされる
大覚寺宮を大将とするが三百余騎が長坂で討死したと記されている
1353年(皇紀2013)正平8年/文和2年9月
供御人らが、毎夜、多量の材木を荷担いして都へ運び売買をしている
買手を官木御用地の小野山に入れて、毎日、伐採して数百荷を販売したと記されている
南北朝の軍記物語「太平記(たいへいき)」に「京中を足の下に見下ろせる峠」という記述がある
「州府志」によると
1582年(皇紀2242)天正10年6月2日
明智光秀が、亀山城から愛宕山愛宕神社参拝して、この京見峠を経由して本能寺へ向かったと記されている
大正時代末期に自動車道が整備され、現在では旧京見峠の位置が確認はされていない
<杉阪の船水(すぎさかのふなみず)>
「京見峠の水」と称される
京見峠の北西約800m、京都府道31号沿い西側に位置する
大日如来の石仏が安置され、石組みの放水口から清水が流れ出ている
平安時代から往来者の憩いの場として利用されてきたといわれる