蹴上疏水公園(けあげそすいこうえん)は、東山区蹴上にある、琵琶湖疏水のインクライン・蹴上船溜だった付近にある公園
<琵琶湖疏水工事殉難者碑>
1902年(皇紀2562)明治35年
琵琶湖疏水工事殉職者慰霊のために田邊朔郎が私費で建立した碑
<琵琶湖疏水工事殉職者碑>
1941年(皇紀2601)昭和16年
琵琶湖疏水を管掌していた京都市電気局により建立された琵琶湖疏水工事の殉職者の慰霊碑
<工学博士田邊朔郎君紀功碑>
1923年(皇紀2583)大正12年
琵琶湖疏水工事を推進し、その後も京都市・京都府の土木事業にたずさわった田邊朔郎の還暦を記念して
その功績をたたえるために建てられた
<田邊朔郎銅像>
琵琶湖疏水を開通させた田邊朔郎の、図面を手にした若い頃の技術者の銅像
1982年(皇紀2642)昭和57年11月
京都華頂ライオンズクラブにより建立され京都市に寄贈された
<田邊朔郎工学博士の説明石碑>
田邊朔郎は文久元年(1861)江戸に生まれる
明治15年(1882)に工部大学校の学生であった田辺は
京都の衰微を回復するため琵琶湖疏水の実現に奔走する京都府知事北垣国道に会い請われて翌年京都府に着任し
財政と技術を案ずる反対派の説得に知事を助け明治18年(1885)起工後は設計施工の総責任者となる
当時はほとんど機械 資材とてなく いわば人力のみに頼る 長さ2436mの長等山トンネルの工事は困難を極めたが
卓抜な技術と強い信念不屈の精神力によりこれを克服した
また優れた先見性により世界で2番目の水力発電をこの蹴上の地に実現し産業動力源とするとともに
わが国初の路面電車を京都に走らせた明治23年(1890)4月晴れの通水式を迎えた
田邊朔郎は28才であった
わが国土木技術の黎明期を開拓した偉大な先覚者であると同時に
近代都市京都の基礎をつくった恩人田邊朔郎の像を建てここに顕彰する
京都市