鴨川(かもがわ)は、京都市北区 桟敷ヶ岳を水源として市街地東部を流れる一級河川
鴨川は、平安京への遷都が占われた四神相応の東の神「青龍」にあたる
京都市街地では、下鴨神社を過ぎたところで、「賀茂川」と「高野川」が合流して「鴨川」となり真南に流れる
二条付近から、琵琶湖疏水とも結ばれ、西側には高瀬川が開拓されて、並行して流れる
四条大橋付近から南西へ流れを変え、伏見区下鳥羽で桂川に注ぐ
高野川と合流する以北を「賀茂川」、以南を「鴨川」と使い分けられている
<志明院の神降窟(しんこうくつ)>
「護摩洞窟」とも称される高さ約30mの大岩窟
洞窟の湧き水が、鴨川の水源となることから、神聖視されて、皇室の崇敬も深く、水神が祀られ、清浄な鴨川の御用水を祈願された
水の伝説として有名な歌舞伎十八番「鳴神(なるかみ)」の鳴神上人が、龍神を閉じこめた所といわれる
<祖父谷川>
鴨川の水源の一つが北区の桟敷ヶ岳で、岩屋橋までは「祖父谷川」と称せられる
<雲が畑川>
祖父谷川が、北北西から流れてきた「雲が畑岩屋川」と岩屋橋付近で合流し、出合橋までは「雲が畑川」と称される
<中津川>
出合橋付近で、北北東から流れてきた中津川と合流し「鴨川」と称せられようになる
<賀茂川>
北区上賀茂で京都盆地に出て、
山幸橋付近で、北北東から流れてきた、貴船川と合流してきた鞍馬川と合流し「賀茂川」と称され、
上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)の西側脇を南南東に流れる
<高野川>
下鴨神社の糺の森を過ぎた賀茂大橋手前で、北北東から流れてきた高野川とYの字型に合流し、
「賀茂川」から「鴨川」と称されるようになり、真南に流れる
<琵琶湖疏水>
1890年(皇紀2550)明治23年
丸太町橋を過ぎた付近で、真東から流れてくる琵琶湖疏水が注がれる
<白川>
四条大橋の上流付近で、琵琶湖疏水から分流して東から流れてきた白川が注がれる
<桂川>
四条大橋付近から南西へ流れを変え、伏見区下鳥羽で桂川に注ぐ
<明神川>
北区上賀茂で賀茂川から分かれ、上賀茂神社境内を流れた後、再び賀茂川に合流する
「御手洗川(みたらしがわ)」とも称され、上賀茂神社境内では、「ならの小川」「御物忌川」とも称される
葵祭などの神事に用いられる新鮮な水とされる
かつては、鴨川の河原で斎王代・女人列御禊神事が行われていた
下鴨神社境内の「御手洗川」は、湧水が水源で、高野川を経て鴨川に注ぐ
<高瀬川>
1614年(皇紀2274)慶長19年
角倉了以・素庵父子によって江戸時代に西側に高瀬川が開拓される
二条付近から並行して流れる
<みそそぎ川>
加茂大橋下流で、鴨川から分かれ、西岸の河川敷を鴨川本流と並行して南下する
二条大橋の下流で、高瀬川を分けた後、五条大橋付近で、再び鴨川に合流する
夏の納涼床が、この川にまたがり設けられる
岩屋橋〜出合橋〜山幸橋〜高橋〜庄田橋〜志久呂橋〜西賀茂橋〜御薗橋〜上賀茂橋〜北山橋〜北大路橋〜出雲路橋〜
葵橋〜賀茂大橋(今出川通)〜荒神橋〜丸太町橋〜二条大橋〜御池大橋〜三条大橋〜四条大橋〜団栗橋〜松原橋〜
五条大橋〜正面橋〜七条大橋〜塩小路橋〜(東海道本線鉄橋)〜(東海道新幹線鉄橋)〜(奈良線鉄橋)〜
東山橋(九条通)〜陶化橋(十条通)〜勧進橋(竹田街道)〜水鶏橋〜(近鉄京都線鉄橋)〜竹田橋〜京都南大橋(油小路通)〜
大宮大橋〜鳥羽大橋(国道1号)〜鴨川橋(名神高速道路)〜小枝橋〜京川橋
鴨川は、氾濫を繰り返す暴れ川だった
市街地でもかなりの急流河川で、上流の北山通と、下流域の東寺五重塔とほぼ同じ高さとなる
<貴船神社>
祭神の高龗神は、雨水をつかさどる神さまで、賀茂川の水源地にあたる水神として崇敬を集める
<半木の道>
北山通と北大路通の間の、京都府立植物園の西側に沿った桜並木の散歩道
西賀茂にあった神社が、賀茂川の氾濫で流れ、この地にとどまった流れ木で神社を創建し祀ったといわれ、
「流れ木(ながれき)」が転訛して「半木(なからぎ)」と称されるようになったといわれる
<防鴨河使(ぼうかし)>
824年(皇紀1484)天長元年
治水を担当する官職「防鴨河使(ぼうかし)」が設けられた
<鴨川の水、双六の賽(さい)、山法師(やまほうし)>
思うようにならない「天下三大不如意」としてあげられる俗諺(たとえ)
平安時代末期、院政をしいて、武家出身の近臣を用いて専制的な政治を行った白河法皇ですら、鴨川の氾濫と、
サイコロの目、延暦寺の僧兵だけは思うようにならなかったといわれる
<仲源寺>
鎌倉時代の1228年(皇紀1888)安貞2年
鴨川が氾濫したとき、防鴨河使勢多判官 為兼(えいかんかわしぜいたはんがん ためかね)が、
地蔵菩薩のお告げにより、洪水を防ぐために四条橋の東北に地蔵菩薩を安置し、「雨止地蔵(めやみじぞう)」と名付けた寺院
<御土居>
1591年(皇紀2251)天正19年
豊臣秀吉の都市改造政策により、都の東部境界として鴨川に沿って御土居が築かれ、堤防としても役立つ
<寛文新堤>
1670年(皇紀2330)寛文10年
今出川通から五条通までの区間に寛文新堤が設けられ、御土居との間が新たな市街地として開発される
後の先斗町通となる
<友禅流し>
京友禅を鴨川の流れにさらして不要な糊を流す友禅流しが行なわれていたが、水質悪化などにより中止されてしまう
<滝沢馬琴>
江戸時代後期の作家
京で良いものとして「女子、鴨川の水、寺社」をあげている
<大水害>
1935年(皇紀2595)昭和10年
死傷者83名、三条大橋、五条大橋を流失する大きな被害を出す
これを契機に河川改修事業が行なわれ、
1947年(皇紀2607)昭和22年に完成する
<島崎藤村「新生」>
鴨川のことが記されているゆかりの著書
<京都市三大事業>
1895年(皇紀2555)明治28年
京都電気鉄道会社により、日本最初の営業用路面電車が開通し、市街路が拡幅され、鴨川にかかる、
丸太町通、四条通、七条通の各大橋も、欧風の軌道併用橋に架け替えられる
<鴨川等間隔の法則>
鴨川の川岸においてたたずむカップルやグループの間隔が、自然に等間隔になることをいう
<産湯に使うと美人になる>
「鴨川の水で産湯を使い、磨き上げると美人になれる」
「鴨川の水で、顔を洗うときれいになる」といわれる
鴨川沿いは桜の名所
特に、賀茂街道や植物園の西側の賀茂川沿いが素晴らしい
<美観地区>
1972年(皇紀2632)昭和47年9月
京都市 市街地景観条例により、
鴨川美観地区として、2種:30ha、3種:12ha、4種:11haが指定されている
<先斗町>
祇園と並ぶ古い花街
1670年(皇紀2330)寛文10年
鴨川の州だったところが護岸工事で埋立てられ「新河原町通」と称され、
寛文新堤の完成で、急速に新しい町並みが形成された
<納涼床>
5月から9月
二条大橋から五条大橋にかけての鴨川西岸(みそそぎ川)の料亭で、河原に張り出した木組みの床が設けられ川床料理が楽しめる
<祇園祭神輿洗>
7月10日 午後8時頃から
17日の神幸祭に渡御(とぎょう)する八坂神社の3基の神輿のうち、主神を祀る中御座中御座(なかござ)の神輿を
鴨川の水で清める神事
<花の回廊>
三条大橋〜東山区七条大橋の鴨川左岸
<鴨川デルタ>
出町柳付近の賀茂川と高野川の合流地点の三角州
河川敷の緑地公園になっている
<河川敷>
三条大橋と四条大橋の間の川岸は、等間隔を空けたカップルや和みの人達がくつろいでいる
<売茶翁 高遊外の顕彰碑>
鴨川の北大路橋東詰め近く
2013年(皇紀2673)平成25年7月16日
煎茶道の中興の祖売茶翁 高遊外の命日にあたり、没後250年を記念した顕彰碑の除幕式が行われた