高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期の豪商 角倉了以によって、京都−伏見間の物流用に開削された、木屋町通沿いの運河
方広寺大仏を再建するための資材の運搬なども行われた
二条大橋の南付近で取水し、木屋町通を南下して、十条通の上流で鴨川を東へ横切り、宇治川に合流していた
現在の鴨川以南は、「東高瀬川」「新高瀬川」と称され、高瀬川や鴨川とは分断されてしまっている
高瀬川沿い木屋町通の三条から四条あたりは歓楽街となっている
「高瀬川の花筏(はないかだ)」が、下京区の下京八景に選定されている
高瀬川は、京都市の中京区・下京区・南区・伏見区を流れる
二条大橋の南付近で、鴨川の西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流)から取水して、木屋町通沿いを南下する
十条通の上流で鴨川を東へ横切り、竹田街道と並行して流れたあと、濠川と合流して、伏見港を経て宇治川に合流していた
現在の高瀬川は、鴨川に合流し、分断されてしまっている
鴨川より南は、「東高瀬川」と称され、高瀬川や鴨川とはつながっておらず、雨水等を水源とする河川となっている
高瀬川は、水深は数10cm程と浅く、物流には底が平らで喫水の少ない「高瀬舟」と称せられる小舟が用いられた
百数十隻が、二条から伏見を上下して、大阪などの物資が京に運び込まれていた
「船入」は、高瀬舟に荷物の揚げ降ろしをするや船の方向転換をするための堀割の船留所
一之舟入は、二条を下った付近にある
二条から四条にかけて、高瀬川から西側に直角に突き出すように9ヶ所設けられていた
現在は、一之舟入を残し、全て埋め立てられてしまった
二之船入跡・三之船入跡には石碑が残る
1648年(皇紀2308)慶安元年
現在の七条通の北側に、「内浜(うちはま)」と称される船溜まりが設置された
「内浜」の名前は、御土居の内側に位置したことに由来する
川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が、高瀬舟を人力で曳いて歩くための曳舟道が設けられた
<木屋町通>
二条から五条にかけて高瀬川に並行して木屋町通がある
三条から四条あたりにかけては歓楽街となっている
幕末維新の史跡が多く残る
<土佐藩邸跡>
高瀬川沿いの立誠小学校跡あたりから河原町通の一帯
土佐藩主 山内家の藩邸の京屋敷があり、尊王攘夷派の拠点となった
<高瀬川舟まつり>
9月秋分
一之舟入付近
先斗町の舞妓さんによるお茶の接待などが行われる
<小説>
著名な小説の題材にも、高瀬川がしばしば登場する
森鴎外
1916年(皇紀2576)大正5年 54歳のとき
「高瀬舟」を「中央公論」に発表
「寒山拾得」を「新小説」に発表