錦小路通(にしきこうじどおり)は、京都市中央部の、四条通の一つ北をはしる東西の通り
平安時代は「具足小路(ぐそくこうじ)」と称されていた
錦市場(にしきいちば)は、高倉通と寺町通の間の、東西約400mのアーケード、石畳の狭い通り
「京の台所」と称される京都きっての市場
青果店、鮮魚店、乾物店、惣菜店など約130店舗が3mほどの幅の路地にひしめき立っている
昔から、清らかで冷たい地下水に恵まれ、魚や鳥の貯蔵に適していたことと、
御所に近く、住民の多い都心部にあったことなどから市場が自然発生したといわれる
「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」によると、
錦小路は、平安時代には「具足小路(ぐそくこうじ)」と称され、その後、転訛して「糞小路(くそこうじ)」となり、
村上天皇の勅命により、四条通をはさんでひとつ南の「綾小路」にちなんで「錦小路」に改められたと記述されている
平安時代末期の「掌中歴(しょうちゅうれき)」によると
1054年(皇紀1714)天喜2年
後冷泉天皇の宣旨によって「具足小路」から「錦小路」に改名されたともいわれる
「具足小路(ぐそくこうじ)」とは、
この通に、大和錦(やまとにしき)を織る職人が多く住んでいたことに由来するといわれる
「宇治拾遺物語」第一九話「清徳聖奇特の事」の説話の中では、
「くその小路」と称されていたのを、天皇に「四条の南に綾小路があり一対となるよう「錦小路」とせよ」といわれたとされる
<伊藤若冲>
1716年(皇紀2376)正徳6年、錦小路中魚町の青物問屋「枡屋」の長男として生まれる
1771年(皇紀2431)明和8年、中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を務める
同年12月、商売敵であった五条通の青物問屋が錦市場を閉鎖に追い込もうと謀られ
1772年(皇紀2432)明和9年1月15日、奉行所から帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下される
それにより、伊藤若冲が、壬生村や西九条村、中堂寺などに錦市場存続の嘆願運動を起こさせたりして奔走し、
1774年(皇紀2434)安永3年8月29日、年に銀35枚の冥加金を納める条件で認められ錦市場が再開する