小川通(おがわどおり)は、京都市街地中央部の南北の通り
北は紫明通から、南は錦小路通までの通り
紫明通から錦小路通までの南北の通り
<小川(こかわ)>
東山を源とする賀茂二股川であり、小川通に沿って南流し、
上立売通で東進、小川通で再び南下し、一条通で西に折れて更科川となり、一条戻橋付近で堀川に合流していた
橋は、百々橋(どどばし)(寺之内町)、水落橋(上立売橋)、羅漢橋(今出川通)などが架けられていた
<百々ノ辻>
「百々」は、百々氏という豪族が住んでいたことから由来するといわれる
近くの宝鏡寺は「百々御所(どどごしょ)」と称される
宝鏡寺の南の寺之内通の一部を、「百々の辻」と称される
<百々橋の礎石遺構>
百々橋(どどばし)が架けられていた跡
長さは7.3m、幅3.7m
1907年(皇紀2567)明治40年の改築のときに石橋になる
1963年(皇紀2623)昭和38年
下水道整備工事により、小川は暗渠化され、百々橋は室町小学校に置かれる
1975年(皇紀2635)昭和50年
百々橋は、竹林公園(西京区)に移された
「今昔物語」によると
夜更けに橋上で、青い着物を着た妖女に出会ったという逸話がある
<本法寺>
小川が門前を流れており、当時の石橋がそのままに残されている
京都市 市街地景観整備条例に基づく
<地区の区域>
かつての西陣と東陣を分ける百々橋があった寺之内通沿い、および、社寺や三千家と町並みを共有する
寺之内通から上御霊前通の小川通沿いの約2.1haの地域
<町並みの形成の沿革>
1467年(皇紀2127)応仁元年
寺之内通小川に掛かる百々橋を境に東軍と西軍に別れて「応仁の乱」が勃発し、京都の市街地は焼け野原となり、
戦国時代を迎えた
以降、織物を主要産業として上京の町が復興される
その後、千利休の子孫が当地で茶道家を営むことになり、茶道文化の殿堂の地を形成してきた
現在では、織屋、商家と社寺や茶道家の門構えが地域固有の町並みを構成し、他では見られない風雅な景観を呈している
<景観整備の目的>
長い歴史の中で洗練され、優れた形態及び意匠を有す京風町家で構成される町並み景観を後世に伝え、
かつ魅力ある生業や生活が営めるよう地域固有の環境を維持又は増進することを目的とする
<地区の景観特色と整備方針>
茶道家の表構えや大小の寺院、商家、織屋、しもたや等、多様な用途、形態及び意匠を有する建築物が調和を保って存在している
この町並み景観は、しっとりとして落ち着きのある風情を漂わせ、訪れる人に感銘を与える
これらの家作は、当該地で地場産業の発展を通じて磨かれてきた暮らしの美学によるものであり、
今後のまちづくり、景観づくりに生かし、町並み景観の粋を増進していく
<小川通無電柱化事業>
小川通周辺の地域は、織屋・商家と寺社や茶道家の門構えが地域固有の町並みを構成しており、
他では見られない風雅な景観を有する地域として、上京小川歴史的景観保全修景地区に指定されている
本事業の区間近隣にも、表千家不審菴や裏千家今日庵、宝鏡寺、妙顕寺、本法寺など重要な史跡等が集中している
そのため、無電柱化事業により、景観を阻害している電柱・電線類を取り除き、
歴史都市・京都にふさわしい景観の保全再生、地域・観光の活性化、
安全で快適な通行空間の確保及び都市防災の向上等を図る
事業区間:上京区禅昌院町〜上京区宝鏡院東町(上御霊前通から寺之内通の間)
路線名:一般市道 油小路通(小川通)
事業延長:全長250m
道路幅員:3.0m〜7.0m
撤去した電柱:11本
<沿革>
2013年(皇紀2673)平成25年度:移設補償、電線共同溝工事
2016年(皇紀2676)平成28年度:舗装復旧工事
2017年(皇紀2677)平成29年春:事業完成
<石畳風保水性アスファルト舗装>
御影石を敷き詰めたような石畳風のアスファルト舗装
小川通は、表千家不審菴、裏千家今日庵に面しており、日々、通りに打ち水を行っておられる
打ち水などの水分を舗装体内に蓄え、晴天時に蒸発させることにより、路面温度の上昇を抑える効果がある
車が常に通り抜けする場所では、初めての施工
<ちびっこ広場>
小川通と寺之内通に面する公園
応仁の乱の戦場であった「百々橋(どどばし)」の礎石が置かれていた
今回、桜の木を中心として園路を整備し、
園路沿いに礎石やベンチを配置するなど、地域の方の憩いの場となるようリニューアルされた
<名称の由来>
小川通の上立売通から一条通まで堀川に流入する小川(こかわ)が、北から南へ流れていたのが由来といわれる