蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)・禁門の変(きんもんのへん)は、幕末維新のときに起こった騒乱
池田屋騒動をきっかけに、長州藩の強硬派らが挙兵、蛤御門付近で、京都御所を守る薩摩藩、会津藩など幕府軍と激戦になる
長州藩軍の敗戦に終わり、京都の市街地の約半分が焼失してしまい、「どんどん焼け」「鉄砲焼け」と称される
蛤御門は、現在の京都御苑の西側に位置する新在家御門
1788年(皇紀2448)天明8年1月30日
天明の大火により、それまで常に閉じられていた新在家御門が初めて開門されたことから、
焼けて口を開ける蛤に例えられ「蛤御門」と称されるようになる
「禁門(きんもん)」とは、「禁裏の御門」の略した称し方
禁門のうち、蛤御門付近が最も激戦区であったため「蛤御門の変」と称される
蛤御門の梁には、現在も弾痕の跡が残っている
徳川幕府は、長州藩藩兵が京都御所へ向けて発砲をしたことなどを理由に、長州藩を朝敵として、長州征伐を行うことになる