<焼失範囲>
東が富小路通、南が六条通、西が朱雀大路より西側、北が大内裏で、京の3分の1が焼失したといわれる
2万程の家が焼亡し、死者も数千人となった
<大内裏の被害>
大極殿・八省院・会昌門・応天門・朱雀門など
神祇官・民部省・主計寮・主税寮・式部省など
大極殿の焼失は、876年(皇紀1536)貞観18年、1058年(皇紀1718)天喜6年に次いで3度目
天皇は内裏で政務を執り行うようになり、朝堂院としての機能はなくなっており、これ以後は再建されることはなかった
<施設など>
大学寮・勧学院など
多くの公卿の邸宅も焼失した
<状況を詠った記録>
「この外殿上人已下、幾多を知らず」(玉葉)
「家二万余家云々、町数二百余町を焼く云々」(愚昧記)
「およそ百八十余町 この中人家、幾万家を知らず」(百錬抄)
「その外、数へ知るに及ばず すべて都のうち、三分が一に及べりとぞ」(方丈記)
<次郎焼亡>
翌年の1178年(皇紀1838)治承2年のに起こった火災