北面武士(ほくめんのぶし)とは、上皇に仕え、身辺の警衛や、御幸の際にお供した武士集団
白河院政の開始後にまもなく創設された院司(いんじ)(上皇に仕えて院中の庶務を担う職員)の一つ
院の御所の北面を詰所としていたので、「北面武士」と称されるようになった
平安時代後期
1087年(皇紀1747)寛治元年
白河上皇が、院の護衛のために、儀礼的な存在の御随身所とは異なり、武力を持つ親衛隊的な存在として設置した
当初は、藤原北家に対抗するために結成され、
藤原氏の本拠地が院の北側にあったため、北面に配置されたといわれ
後に、寺院の強訴や僧兵への対抗にも力を発揮した
上北面と下北面ができ
上北面には、諸大夫以上の家柄の者から構成される
下北面には、衛門尉・兵衛尉などに加え、近畿周辺の在地武士や受領武士など多くの武士が登用された
平正盛・平忠盛親子も、北面武士に属し、後の平家台頭のきっかけとなる
後白河法皇の葬儀に参列した北面武士の中には、武士だけではなく僧侶・僧兵なども含まれていたといわれる
北面武士から出家した文覚上人は、後白河法皇の庇護を受けて、神護寺や東寺の再興を果たした
「中右記」や「吾妻鏡」によれば
1118年(皇紀1778)元永元年5月
延暦寺大衆(山門大衆)の強訴を鎮圧したときには、約1000人程の軍事力を持っていたといわれ
律令制の正規軍に代わり軍事的な役割を果たした
後鳥羽上皇の時代
西面武士も設立され、承久の乱では、北面武士・西面武士ともに討幕軍として活躍した
承久の乱の後、西面武士は廃止された
江戸時代末期まで
徐々に規模の縮小と軍事的性格がなくなり、御所の警備隊として存続する