朱雀門(すざくもん)は、平安京の大内裏における南面する正門
平安京の朱雀大路(現在の千本通)の北端にあり、二条大路に面していた
平安時代初期
794年(皇紀1454)延暦13年
平安京の大内裏における南面する正門として建立される
当初は、天皇警護をしていた大伴氏にちなみ「大伴門(おおとももん)」と称されていた
818年(皇紀1478)弘仁9年
名称が「朱雀門」に改められる
866年(皇紀1526)貞観8年
伴大納言絵詞」(国宝)に朱雀門が描かれている
989年(皇紀1649)永祚元年 倒壊する
鎌倉時代
1208年(皇紀1868)承元2年 焼失する
1209年(皇紀1869)承元3年 倒壊する
1211年(皇紀1871)建暦元年 倒壊する
1227年(皇紀1887)安貞元年 焼失する
1985年(皇紀2645)昭和60年
朱雀門北側の立会調査により朱雀門から応天門間の道路が見つかる
千本通での埋設管敷設工事にともない、何度か立会調査が行われる
2011年(皇紀2671)平成23年
朱雀門推定地北西隅で試掘調査を行い、平安時代の土坑1基が発見される
<条坊制の都市>
東アジアの条坊制の都市において、朱雀門とは、宮城(大内裏)において南面する正門のこと
朱雀門の北には朝堂院が置かれ、朱雀門から南には羅城門まで朱雀大路が一直線に延びていた
名前は、南方の守護神である朱雀にちなむ
日本では、最初に藤原京で採用された
<朱雀門(すざくもん)>
大内裏の南面中央に、二条大路に面して、正門として建てられていた
大内裏の外郭12門のうち重要な三門(朱雀門・上東門・上西門)の一つであり、その中でも最も重要な最大の門であった
当初は、天皇警護をしていた大伴氏にちなみ「大伴門(おおとももん)」と称されていた
朱雀門の左右の衛門府(えもんふ)により、共同で警固されていた
壇上積基壇の上に建てられていた
正面七間二間五戸、奥行五間の二重閣、入母屋造、瓦葺、柱は朱塗、棟の両端に金色の鴟尾(しび)が乗せられた
門前では、儀式や歌垣(うたがき)が行われていた
6月の夏越祓、12月晦日の大祓、斎内親王(斎宮)の伊勢群行、大嘗祭に伴う臨時の大祓も行われた
夏越祓・大祓は、門前の堀(8尺)である耳敏川(みみとがわ)で行われた
<朱雀大路>
平安京の中心となる南北の大通り
朱雀門から、南の羅城門まで一直線に延びていた
<朱雀門跡>
二条駅近く千本通の東に、「此附近 平安京大内裏 朱雀門址」の石碑が立てられている
千本通での埋設管敷設工事にともない、何度か立会調査が行われている
<「伴大納言絵詞」(国宝)>
平安時代後期、866年(皇紀1526)貞観8年の応天門の変の様子が描かれている絵巻
朱雀門も描かれている
<空海の扁額>
「太平記」巻十二によると、
空海は、無徳の君の大内裏造営に対して、将来の国の財を案じ戒めとするために、扁額を書いたときに、
大極殿の「大」を「火」にして「火極殿」、朱雀門の「朱」を「米」にして「米雀門」とあえて変えて書いたといわれる
<赤鬼の詩>
「撰集抄」巻八、「十訓抄」によると、
平安時代、延喜年間(901年〜923年)の初め、貴族で文人の都良香(みやこのよしか)が、
朱雀門近くで「気霽(は)れては風、新柳の髪を梳(けづ)り」と漢詩を詠むと、
楼上より「氷消えては波、旧苔の鬚(ひげ)を洗ふ」と詩が返ってきた
都良香が、このことを菅原道真に話すと、「下句は鬼の詩だ」と話し、朱雀門には赤鬼が棲んでいたといわれる
(羅城門での故事ともいわれる)
<鬼の笛>
「十訓抄」第十によると、
平安時代、管弦名人である公卿で雅楽家の源博雅は、名月の夜に朱雀門の前で笛を吹くと、巧みに笛を吹く者が現れた
以来、二人は月夜にしばしば笛を吹いた
ある時、源博雅が、笛を取り換えてもらい吹くと、名笛であることが分かった
源博雅の死後、天皇が、その笛を名手に吹かせたが、誰一人として吹きこなす者がいなかった
浄蔵が、その笛を巧みに吹くことができ、天皇の命により、月夜の朱雀門で吹くと、楼上より「なお一物や」と褒める声があった
その時、その笛は、朱雀門に棲む鬼の物であることが分かった
笛は「葉二(はふたつ)」と名付けられた
<登照の予見>
「今昔物語集」巻四によると、
平安時代中期の天台宗の僧 登照(とうしょう)が朱雀門を通りかかったとき、門下で老いた男女の姿を見かける
二人ともに死相が出ていたので、この門がすぐに倒れると察知し、大声で危険を知らせた
人々は逃げ出し、朱雀門は倒壊していった
登照の警告を聞かなかった者は、押しつぶされたといわれる