穴山梅雪(あなやまばいせつ)(穴山信君)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・穴山家7代当主
甲斐 武田信玄の娘婿・重臣で、武田姓を名乗ることを許された御一門衆の一人で、武田二十四将の一人とされる
武田信玄の死去の後、徳川家康の勧めで、穴山家が武田家の名跡を継承することを条件に、
織田信長についたことで、武田軍の敗北を導く
本能寺の変による徳川家康の伊賀越えに同行し、宇治田原(京都府綴喜郡)で落ち武者狩りに襲われ殺された
<穴山梅雪の埋没金伝説>
穴山信君は、武田信玄から、所有していた数多くの金山から産出した金(総額数億円以上といわれる)を
「棒道(ぼうみち)」(軍用道路)の各所に隠すように命じられていた
穴山信君は、武田信玄の死後、武田家を離反することを決意して、隠した金を独断で移し替えたといわれる
その後、穴山梅雪が、伊賀越えの途中で殺されたときに所持していた書付を落ち武者狩りの土民が見つけ、
埋蔵金の一部を手に入れたという話がある
明治時代
穴山梅雪の子孫が見つけた古文書に「隠し湯の湧きて流る窟穴をのぼりて指せや」と記されており、
山梨県の南巨摩郡身延山付近に埋蔵金があると特定され、長年にわたり埋蔵金探しが行われている
<お墓>
穴山梅雪は、伊賀越えの途中で殺され、草池村(草内村:京都府綴喜郡)木津川ノ西南段ノ岡に葬られたといわれる
現在の飯岡墓地(京田辺市飯岡)にあたる