朝倉義景(あさくらよしかげ) は、戦国時代の越前国(福井県)の戦国大名
越前朝倉氏第11代 最後の当主で、織田信長に滅亡させられる
朝倉氏は、7代当主 朝倉敏景(孝景)のとき、応仁の乱や主家 斯波氏の内紛により、越前国を領国にして、
一乗谷(福井市)に城を築いて支配していたが、常に加賀一向一揆との争いになっていた
三好政権によって都を追われて下ってきた14代将軍 足利義昭に上洛を促されるが、その気はなく
美濃国を追われて朝倉義景の重臣となっていた明智光秀が、織田信長に仲介する
織田信長・明智光秀が、将軍 足利義昭とともに上洛してから、侵攻を受けるようになり
浅井長政と協力して対抗したが、姉川の戦い(滋賀県長浜市)で大敗
一乗谷まで敗走して戻るが、織田信長に追われて居館や神社仏閣などの焼き討ちにあい、自害し、朝倉家も滅亡する
越前朝倉氏第11代 最後の当主で、織田信長に朝倉家が滅亡させられた
<文芸>
歌道・連歌・和歌・絵画に才能があり、猿楽・作庭・茶道など多くの芸事を好んで行った
京都や奈良の貴族・僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも称されるようになる
1562年(皇紀2222)永禄5年には、大覚寺義俊を招いて曲水の宴を催した
14代将軍 足利義昭を迎えたときにも、詩歌の宴を催した
茶道にも凝り、一乗谷からは現在も多くの茶器が出土している
<鉄砲隊>
加賀一向一揆との戦いにおいて、当時は先進的だった鉄砲隊 約100名の「鉄砲寄子」を
明智光秀の指導の下、結成したといわれる
<辞世の句>
「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」