足利義持(あしかがよしもち)は、室町幕府第4代征夷大将軍
父親 第3代将軍 足利義満は、同母弟の足利義嗣を溺愛し、生母の死後に不仲となっていく
足利義満の死後、足利義満の政策をことごとく覆していく
勢力を盛り返す守護大名の調整役として機敏に立ち回り、室町幕府の歴代将軍の中で比較的安定した政権を築き上げる
将軍在職28年は、歴代室町将軍で最長
<政策>
父親 第3代将軍 足利義満は、同母弟の足利義嗣を溺愛し、生母の死後に不仲となっていく
足利義満の死後、足利義満の政策をことごとく覆していく
足利家の家督相続も、偏愛を受けていた異母弟の足利義嗣が継ぐと思われていたが
宿老 斯波義将 (しばよしまさ) や守護大名の主張によって義持が家督を相続する
足利義満の死後、
朝廷が、太上法皇(太上天皇)の尊号を与えようとするが、義持や斯波義将が拒否する
足利義満が造営した花の御所から、祖父 2代将軍 足利義詮の住んでいた三条坊門第へ移る
足利義満が積極的に行っていた日明貿易に反対し、明の永楽帝の勅使が京都に入る事を許さず、兵庫から帰国させ
明との国交を断絶する
足利義満と異なり、諸大名や諸寺などに対して積極的に所領安堵を行っていく
自ら出かけていく「御成り」により、足利義満の将軍専制から緩やかな主従関係を築いていく
斯波義将の死後、管領だった義将の孫の斯波義淳が辞任、後任に足利義満が失脚させた畠山満家を抜擢する
義母 日野康子の死後、足利義満が造成した政務中枢「北山第」を、舎利殿(後の金閣寺)を除いて全て取り壊す
朝廷とは、極めて良好な関係を保ち、多く参内した
後小松上皇と連携して緊密な政治関係を築いたといわれ、
足利義満とは異なり、武家は裏方に徹して公家政治の表舞台に出るべきではないと考えていたといわれる
<田楽>
足利義満が庇護していた猿楽能の世阿弥を遠ざけ、田楽を好んだ
<医薬>
関心が深く、霊宝丹の薬方を日本に持ち込んだ陳外郎を登用し、外交を任せるようになる
<社寺参詣>
信心深く、多くの社寺に参詣しており、北野天満宮への参拝が最も多かったといわれる
問題が発生するたびに臨時の祈祷を開催したといわれる
<水墨画>
京都五山の禅僧が参集して文化サロンが形成され、水墨画が発展した
詩画軸が全盛期となる
如拙筆の「瓢鮎図」(国宝)も義持の発案・指導によって描かれたといわれる
臨済宗の画僧 吉山明兆の画法を好んだといわれる
<等持院>
霊光殿に、足利義持など足利歴代将軍木像が安置されている
<相国寺塔頭勝定院>
足利義持の菩提所
長得院に合併されている
<金閣寺>
足利義持が、父親 足利義満が造成した政務中枢「北山第」を、舎利殿(金閣)を除いて全て取り壊し禅寺とする
<東福寺>
三門(国宝)は、日本最大最古のもので、日本三大門の一つ
足利義持により再建される
正面二階の大扁額「妙雲閣」は、足利義持の筆で、畳三畳分の大きさがある
<退蔵院>
紙本墨画淡彩「瓢鮎図」 1幅(国宝)
足利義持の命・指導により、如拙に「座右の小屏(座屏)に新様をもって画かせた」とされる
「新様」とは、中国 南宋院体画の様式を取り入れたものといわれる
<養徳院>
足利満詮像1幅(重要文化財)
足利義持の賛がある
<神護寺>
絹本著色 足利義持像(寺伝足利義満像)一幅(重要文化財)
藤原行秀の筆といわれ、怡雲寂訔の賛「征夷大将軍従一位行内大臣」がある
足利義持が29歳のときの肖像画
<天龍寺塔頭 慈済院>
絹本著色 足利義持像 一幅(重要文化財)>
足利義持の肖像画
1412年(皇紀2072)応永19年の作、作者不詳
<「籤引き将軍」>
第6代将軍 足利義教(義円)
重病に陥った足利義持の後継ぎが、足利義持の弟である梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆・義円の中からくじ引きで決められる
石清水八幡宮で、足利満家がくじを引き、翌日の足利義持の死亡後に開封され、義円が後継者に決まった