足利義視(あしかが よしみ)は、室町時代中期の足利将軍家の武将
6代将軍 足利義教の十男
実子がなかった異母兄 8代将軍 足利義政の異母弟
10代将軍 足利義材(足利義稙)の父親
足利将軍家の跡継ぎ争いと、複数の管領家の跡継ぎ争いを要因とする応仁の乱の当事者の一人
<出生>
6代将軍 足利義教の十男
実子がなかった異母兄 8代将軍 足利義政の異母弟
10代将軍 足利義材(足利義稙)の父親
足利将軍家の跡継ぎ争いと、複数の管領家の跡継ぎ争いを要因とする応仁の乱の当事者の一人
<身分の変遷>
4歳:出家して、天台宗 浄土寺の門跡を継ぎ「義尋(ぎじん)」と号する
25歳:実子がなかった異母兄 8代将軍 足利義政に依頼され、僧侶から還俗して次期将軍候補となる
26歳:足利義政と日野富子の間に、足利義尚が誕生し、中継ぎ将軍候補となる
28歳:応仁の乱
足利義政・日野富子・足利義尚らとともに東軍に属し、大将とされる
戦いを望まず、京都から脱出して、北畠氏を頼りに伊勢に向かう
29歳:足利義政に説得されて、伊勢から帰京する
足利義政と対立して、比叡山に脱出して、山名宗全の西軍につく
38歳:西軍が解体され、息子 足利義材とともに、美濃国の土岐成頼のもとに脱出し、承隆寺に滞在する
50歳:9代将軍 足利義尚が死去
足利義政と、応仁の乱 以来10数年ぶりに対面を果たす
通玄寺で出家をして「道存(どうぞん)」と号する
51歳:息子 足利義材が10代将軍となり、義視は、准后宣下を受け、将軍の父(大御所)として政務をとる
52歳:死去する
<相国寺>
義視の御影堂が相国寺の大智院(現在は廃絶)に置かれた
これは足利義満以後の歴代将軍と同じ待遇を受けた