足利義政(あしかがよしまさ)は、室町幕府第8代将軍
管領家家督問題や守護大名らの争い、将軍後継ぎ問題などに実権が握れず、政治的意欲を失い、
「先の大戦」と称される史上最悪の内乱である応仁の乱を引き起こすことになる
戦火や大飢饉で疲弊している中、強引に東山山荘(銀閣寺)を造営するなどし、後花園天皇から忠告を受けたといわれる
当初は、祖父 3代将軍 足利義満や父親 足利義教の政策を復活させようと試みる
が、足利義教の大名抑圧策の反動で、畠山・斯波ら有力守護家に家督紛争が頻発する
関東では、鎌倉公方 足利成氏と関東管領上杉氏との大規模な内紛(享徳の乱)に対して、足利成氏追討令を出して、
異母兄 堀越公方 足利政知を派遣するなどして積極的な介入を行った
政所執事 伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする側近たちを基盤として、守護大名の勢力に対抗して、
将軍の親裁権の強化を図ろうとした
が、政務の主導権は、母親 日野重子や乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家(「ま」がつく3人を「三魔」と称される)に握られていた
日野富子が正室になった後は、日野富子の兄 日野勝光や、蔭涼軒(季瓊)真蘂、政所執事 伊勢貞親ら有力な守護大名などが
政治に介入してきて、政治の主導権を握ることが困難であった
加賀守護であった富樫氏の内紛では管領 細川勝元の反対を受けて、意のままに相続権を動かすことができなかった
尾張守護代であった織田郷広の復帰を図ったが、尾張・越前・遠江守護である斯波義健や守護代 甲斐常治の反対を受ける
文正の政変では、山名宗全と細川勝元とが共謀して、政所執事の伊勢貞親・季瓊真蘂・斯波義敏・赤松政則らを失脚させる
これにより、将軍家側近の実力者がいなくなり、足利義政は完全に政治への意欲を失ったといわれる
<応仁の乱>
「先の大戦」と称される11年間におよぶ史上最大の内戦
足利義政を取り巻く有力者の家督相続問題、将軍後継ぎ問題などでの優柔不断さが要員の一つとされる
<慈照寺>
足利義政が、浄土寺跡に建てた東山殿(銀閣)(東山山荘)が由来
足利義政が自ら作庭を指示したといわれる、錦鏡池を中心とした池泉回遊式庭園がある
<慈照院>
1490年(皇紀2150)延徳2年
足利義政の塔所影堂となり、足利義政の法号により、「大徳院」から「慈照院」と改称される
<熊野若王子神社>
歴代の足利将軍に篤く信仰され、足利尊氏、足利義政が、ここで花を愛で宴を開いたといわれる
<花の御所>
1467年(皇紀2127)応仁元年
足利義政のとき、応仁の乱の戦火で焼失する
<浄土院>
1482年(皇紀2142)文明14年
足利義政が東山殿を造営するときに、相国寺の西に移される
本堂の本尊の阿弥陀如来坐像は、足利義政の持仏といわれている
<等持院>
足利尊氏の菩提寺
歴代の足利将軍の木造が安置されている
足利義政好みの二畳台目席の茶室「精連亭」がある
<真如堂>
足利義政が、永代燈明油入れとして寄進された「釉貼花花卉鳳凰六耳壺」がある
<鞍馬寺>
足利義政御教書(重要文化財)が所蔵されている
<東山文化>
芸術面では、卓抜した指導力と鑑識眼を発揮した
東山殿(銀閣寺)を中心に、金閣の華やかな「北山文化」に対し、わびさびに重きをおいた「東山文化」と総称される
庭師 善阿弥、土佐派 土佐光信、画僧 小栗宗湛、能楽者 音阿弥、同朋衆 相阿弥、横川景三らを召抱える
<狩野派>
足利義政に重用された狩野正信を祖とする日本美術史上最大かつ最長の代表的な、御用絵師の流派
<五山の送り火>
1489年(皇紀2149)延徳元年
足利義政が、近江の合戦で亡くなった実子 足利義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めたといわれる