足利義尚(あしかがよしひさ)は、室町時代後期の室町幕府第9代将軍
8代将軍 足利義政の実子で、足利義政の弟 足利義視と将軍跡継ぎ問題で母親 日野富子らに擁立され応仁の乱の一要因となる
応仁の乱の最中の、9歳のときに、足利義政から将軍職を譲られる
応仁の乱の後、幕府の復権を図り、近江守護の六角高頼の討伐のため、近江鉤に長期滞在することになり
享年25で近江鈎の陣中で病死する
<緑髪将軍>
「御容顔いとも美しく、すきのない玉の御姿」と記されるほど、美しい顔立をしていたといわれる
<政道>
応仁の乱の直後は、政治改革に意欲を示し、
政治顧問の一条兼良から、帝王学や治国の書として「樵談治要」「文明一統記」などを授かる
<歌道>
一条兼良から和歌なども学ぶ
<新百人一首>
1483年(皇紀2143)文明15年10月に撰定
<和歌「撰藻鈔」>
姉小路基綱や三条西実隆、飛鳥井雅親、宗祇などの歌人を結集して編纂を行うが、途中で死去して完成しなかった
<多田院廟前詠五十首和歌>
1484年(皇紀2144)文明16年、摂津国の多田院に奉納した
<歌集「常徳院殿御集」>
<辞世の歌>
「ながらへば人の心も見るべきに露の命ぞはかなかりけり
もしほ草あまの袖師の裏波にやどすも心あり明の月
出づる日の余の国までも鏡山と思ひしこともいたづらの身や」
<等持院>
木像が安置されている
<肖像画「足利義尚像」>
束帯姿
天龍寺の所蔵
<肖像画「足利義尚像」(重要文化財)>
狩野正信の作
1489年(皇紀2149)延徳元年の足利義尚の騎馬武者姿の肖像画
金宝山地蔵院(名古屋市)の所蔵
<相国寺常徳院>
亡くなった直後に葬られた
<墓所>
後に大光明寺に改葬された