足利義輝(あしかがよしてる)は、戦国時代の室町幕府第13代征夷大将軍
応仁の乱の後の、父親 第12代将軍 足利義晴と細川晴元の権威争いの争いで、近江に逃れている最中に
11歳で第13代将軍となり、29歳のときに、京都を制圧した三好政権の松永久通と三好三人衆に暗殺された
その間、管領 細川家の内紛や、三好家・松永家らの覇権争いで、たびたび、近江坂本や朽木谷に逃れる
三好長慶と和睦した後に京都に戻り、名ばかりだった将軍と幕府の権力回復に努める
ルイス・フロイスの「日本史 第65章」によると
義輝を「とても武勇すぐれて、勇気ある人だった」と評している
「信長公記」によると
織田信長は、義輝の朝廷軽視が、将軍の権威復活がならず、非業の死の原因であると述べたといわれる
義輝は、将軍就任から18年間にわたり昇叙されなかった
三好政権による主君殺害は、多くの大名や朝廷、一般庶民をも憤慨させたといわれる
<剣術>
義輝は、剣豪 塚原卜伝(つかはらぼくでん)から指導を受けた直弟子の一人
奥義「一之太刀」を教わったといわれる
ルイス・フロイスの「日本史 第65章」によると
「義輝は自ら薙刀を振るって戦い、人々はその技量の見事さにとても驚いた」と記されている
「信長公記」には
「数度きつて出で、伐し崩し、数多に手負わせ、公方様御働き候」と記されている
<キリスト教>
ガスパル・ヴィレラにキリスト教の布教を許可する
正親町天皇が、京都からイエズス会を追放するよう勅命するが、義輝は無視して保護する
<幕府権力と将軍権威の復活>
諸国の戦国大名との関係性を保つため、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った
1548年(皇紀2208)天文17年 伊達晴宗と伊達稙宗
1550年(皇紀2210)天文19年 里見義堯と北条氏康
1558年(皇紀2218)永禄元年 武田晴信と長尾景虎
1560年(皇紀2220)永禄3年 島津貴久と大友義鎮
毛利元就と尼子晴久
1561年(皇紀2221)永禄4年 松平元康と今川氏真
1563年(皇紀2223)永禄6年 毛利元就と大友宗麟
1564年(皇紀2224)永禄7年 上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信 など
<辞世の句>
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
<秀隣院庭園(しゅうりんいんていえん)(国指定名勝)>
京都を追われて5年間を過ごした近江朽木(くつき)の居館に、銀閣寺の庭園を参考に造営したといわれる
<斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址>
武衛陣は、室町幕府 管領 斯波義将(斯波氏5代当主)の邸宅で、現在の平安女学院の敷地一帯の地にあった
同じ地に、足利義輝の屋敷が築かれ、室町幕府の拠点が移された
後に、大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となり、旧二条城とも称される
<二条御所跡>
足利義輝の屋敷が、後に、大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となり、旧二条城とも称される
<妙覚寺>
一時期、将軍 足利義輝の御所となる
<相国寺 光源院>
足利義輝が死去してその菩提寺となり、足利義輝の院号により「光源院」と改称される
<若宮八幡宮社>
応仁の乱で荒廃していたところ、足利義輝や足利義昭の発起により、諸国の武家に寄付を募って再建される
<大圓寺>
足利義輝の帰依を受け、この地域の学問所として多くの学僧が集まり影響力を持った
<等持院>
足利義輝木像が安置されている
<京都造形芸術大学>
土佐家資料の中に、源弐(土佐光吉)が写したという頭部の下絵(紙形)がある
<童子斬り安綱(国宝)>
源頼光が酒呑童子を斬ったとされる太刀
安綱は、平安時代末期における伯耆国の名工で、銘が残る最も古い刀工の一つ
室町時代以来、足利将軍家が所有していたが、足利義輝のときに織田信長の手にわたり、豊臣秀吉を経て、徳川家康に移る
現在は、東京国立博物館に収蔵されている