足利義満(あしかがよしみつ)は、室町幕府 第3代征夷大将軍
南北朝統一をさせ、各地の強力守護を制圧、将軍職を退いて出家した後も太政大臣として実権をふるった
明と国交を開き、勘合貿易(かんごうぼうえき)により、日明貿易を振興する
相国寺や北山殿(金閣寺)(鹿苑寺)を創建し、北山文化をもたらした
邸宅を北小路室町(現在の今出川室町通付近)へ移し、豪華な邸宅は「花の御所」・「室町殿」とも称され、
後に政庁を兼ねた将軍邸が「室町幕府」と称されるようになった
禅宗寺院の統制のために五山制度(五山・十刹・諸山)を整備した
<相国寺>
1382年(皇紀2042)弘和2年/永徳2年
足利義満が、邸宅(花の御所)の東隣に創建した禅宗寺院
足利義満は、禅の師であった天龍寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは)に開山となることを要請したが断られ、
開山を春屋妙葩の伯父であり師でもある高僧 夢窓疎石とし、春屋妙葩は、第二世住持となる
<玉龍院>
足利義満が創建した相国寺の塔頭
<金閣寺(鹿苑寺)>
1397年(皇紀2057)応永4年
足利義満が、河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって「北山殿」を造営したのが由来
足利義満が将軍職を辞した後の隠居所で、北山文化の中心となったところ
<等持院>
足利義満が火葬されたところ
足利尊氏のお墓があり、足利歴代将軍の木像が安置されている
<大報恩寺 千本釈迦堂>
1401年(皇紀2061)応永8年
足利義満が、明徳の乱で敗戦死した山名氏清や兵士を弔うため「北野経王堂願成就寺」を内野(北野天満宮門前)に
建てたといわれる
明治維新の神仏分離によって破却され、大報恩寺に解体縮小して移築され北野経王堂となる
<大聖寺>
1382年(皇紀2042)弘和2年/永徳2年
足利義満が開基となり、無相定円尼の岡松殿を寺院とし、法名にちなんで「大聖寺」された
<引接寺>
足利義満は、ここの普賢象桜と狂言を気に入り「桜の見時に狂言を行うこと」と、毎年、扶持米を寄進したといわれる
<地蔵院>
足利義満が、金閣寺建立の余財で仮堂を建て、地蔵菩薩を祀り再建する
<乙訓寺>
足利義満は、内紛をする僧徒を追放し、南禅寺の伯英禅師に与え再興させる
<鹿王院>
1380年(皇紀2040)天授6年/康暦2年
足利義満が、延命祈願のため、普明国師 春屋妙葩を開山として宝幢禅寺を建立したのが由来
<龍吟庵>
方丈(国宝)の正面の扁額「龍吟庵」は、足利義満の筆
開山堂の正面の扁額「霊光」は、足利義満の筆
<正伝寺>
1340年(皇紀2000)興国元年/暦応3年
足利義満の祈願所ともされ、十刹に加えられる
<退蔵院>
瓢鮎図(ひょうねんず)(国宝)は、日本の水墨画の創始者の一人である禅僧 如拙の代表作で、足利義満の命を受けて
心血注いで描かれた、現存する如拙の作品の中でも最高傑作といわれる
足利義満が、「捕まえにくいなまずを、瓢箪でどのようにして捕まえるか」を京都五山の禅僧31人に参詩を書かせた禅機画
<室町第跡(花の御所)>
四季の花や名木で飾られた邸宅跡
<御所八幡宮>
八幡宮は源氏の鎮守の社とされており、足利家もよく参拝していたといわれる
<平岡八幡宮>
1407年(皇紀2067)応永14年
社殿を焼失し、すぐに足利義満により再建され、高雄への紅葉狩りのときに平岡八幡宮を訪れたといわれる
<新熊野神社>
1374年(皇紀2034)文中3年/応安7年
室町三代将軍 足利義満が、新熊野神社において、初めて観阿弥・世阿弥親子の猿楽能を見たといわれる
奉納は、「新熊野神事猿楽」
この年が、「日本能楽史上紀元元年」といわれる
<猿田彦神社>
1383年(皇紀2043)弘和3年/永徳3年
足利義満により、本殿が造替えされる
<敷地神社>
1397年(皇紀2057)応永4年
足利義満が、北山殿を造営するときに、敷地神社を鎮守神として現在の地に移したといわれる
<南北朝統一>
1392年(皇紀2052)元中9年/明徳3年
足利義満は、南朝勢力が衰微したため、大内義弘を仲介に南朝方と交渉を行う
南朝の後亀山天皇に、持明院統と大覚寺統が交互に即位する事(両統迭立)や、諸国の国衙領を全て大覚寺統の
所有とする事などの和平案を提示する
後亀山天皇が保持していた三種の神器を、北朝の後小松天皇に譲渡させ、58年にわたる朝廷の分裂を終結させる
<日明貿易(にちみんぼうえき)>
1401年(皇紀2061)応永8年
足利義満は、「日本国准三后源道義」の名義で、博多の商人 肥富と僧祖阿を使節として明に派遣する
明の大統暦が日本国王に授与され、両国の国交が正式に樹立された
明に要請されて、倭寇を鎮圧した
1404年(皇紀2064)応永11年
日本国王が皇帝に朝貢する勘合貿易が始まる
勘合符の有無によって公私の船を区別する方式を定め、多くの貿易利益を収めた
<応永年号>
1394年(皇紀2054)応永元年
足利義満は、明の太祖 洪武帝の治世にあやかり、元号に「洪」の字を使おうとしたが、「洪」は、「洪水につながり、
また不吉な字である」として公家達に反発され実現しなかった
それで足利義満は機嫌を損ねて改号を行わなかったといわれ、応永年号が、明治以前では最も長い元号となった
<北山文化>
1397年(皇紀2057)応永4年
西園寺家から、北山の別荘地「北山弟(ほくさんてい)」と西園寺を譲り受け、三層の金箔の舎利殿(金閣)を
中心とする山荘「北山殿(きたやまどの)」(後の鹿苑寺)を造営する
北山殿を中心に、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合した文化が生まれ「北山文化」と称される
<世阿弥>
1374年(皇紀2034)文中3年/応安7年
観阿弥が、新熊野神社で催した猿楽能に12歳の世阿弥が出演する
このとき、将軍 足利義満の目にとまり、観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになる
この年が、「日本能楽史上紀元元年」といわれる
<京都五山>
1386年(皇紀2046)元中3年/至徳3年
足利義満が相国寺を創建し五山を改める
五山之上に南禅寺
第一に天龍寺・建長寺
第二に相国寺・円覚寺
第三に建仁寺・寿福寺
第四に東福寺・浄智寺
第五に万寿寺・浄妙寺
として、京都五山が鎌倉五山より優位とされた
僧録司制なども定めて住職の任命権なども掌握し、幕府の権限を発揮した
<宇治茶>
足利義満が、宇治に新しい茶園を開拓し、宇治七名園ができ、宇治茶が隆盛する