藤原兼家(ふじわらのかねいえ)は、平安時代中期の公卿
藤原氏として、初めて摂政・関白・太政大臣を歴任する
策略を尽くして天皇の外戚となり地位を確立し、五男 藤原道長の時代に絶頂期を迎える
父親:藤原北家九条流 右大臣 藤原師輔
母親:藤原盛子(武蔵守 藤原経邦の娘)
正妻:藤原時姫(藤原中正の娘)
長男:藤原道隆
三男:藤原道兼
五男:藤原道長
長女:藤原超子(冷泉天皇の女御)(三条天皇の生母)
三女:藤原詮子(東三条院)(円融天皇の女御)(一条天皇の生母)
妻:藤原道綱母(藤原倫寧の娘)(蜻蛉日記の作者)
次男:藤原道綱
妻:保子内親王(村上天皇の第三皇女)
妻:対の御方(藤原国章の娘)
四女:藤原綏子(三条天皇東宮の女御)
妻:中将の御息所(藤原懐忠の娘といわれる)
妻:権の北の方
妻:藤原忠幹の娘
四男:藤原道義
妻:源兼忠の娘
次女:藤原道綱母の養女となる
「蜻蛉日記」によると、妻は9人いたとされる
<大将軍神社>
相殿に藤原兼家が祀られている
東三条社は、この地に建てられていた藤原兼家の邸宅「東三条院」の名跡
<延暦寺>
恵心院は、藤原兼家が、良源のために建立した念仏三昧道場だった建物
<元慶寺>
花山天皇が19歳のとき、藤原兼家・藤原道兼父子の策略により出家させられたところ
<法雲寺>
藤原兼家が、邸宅 二條第を寺院に改めて法興院を創建する
藤原兼家の息子 藤原道隆が、法興院内に積善寺を建立し、一切経を奉納して盛大な供養を行った
<父親 藤原師輔の長男・次男・三男>
藤原氏は、藤原師輔の長男 藤原伊尹の元で、藤原摂関家の勢力を伸ばす
三男 兼家は、藤原師輔に引き立てられ、次男 藤原兼通より昇進が早く、藤原兼通の妬みをかい兄弟の確執を生む
藤原伊尹が亡くなると、円融天皇は兄弟順を優先させて藤原兼通を関白に任命する
藤原兼通は、これまでの復讐のように、兼家の昇進をことごとく阻み
二人は、宮中でも露骨にいがみ合っていたといわれる
<安和の変>
長兄 藤原伊尹と共謀して、藤原氏以外を排斥し、左大臣 源高明などを失脚に追い込んだ
<寛和の変>
兼家の娘 詮子が円融天皇との間に産んだ懐仁親王が、花山天皇の東宮に立てられる
兼家は、息子 藤原道兼を通じて花山天皇に出家をそそのかし、
兼家に仕える源頼光ら武士たちに警護させて、花山天皇を内裏から抜け出させ、元慶寺で剃髪出家させる
孫 懐仁親王を一条天皇に即位させ、その外祖父となった兼家は摂政・太政大臣に就任する
<藤原道長>
兼家の五男
兼家の関白を継いだ長男 藤原道隆、同母の三男 藤原道兼が死去し、同母の藤原道長が継ぐ
父親の兄弟争いと同様に、長兄 藤原道隆の息子 藤原伊周と激しい官位争いをした
娘の3人を天皇の中宮にし、三后(皇后・皇太后・太皇太后)を全て自分の娘で占めた(一家三后)
藤原家の全盛期を築いた
<蜻蛉日記>
上・中・下3巻より成る
作者は、兼家の妻 藤原道綱母
20歳から40歳までの、21年間の藤原兼家との結婚生活の経緯が記されている
次兄 藤原兼通との骨肉の争いや、兼家に9人の妻がいたことでの浮気性などが指摘されている
<東三条院>
藤原北家の基礎を築いた藤原良房の邸宅に始まり、藤原忠平を経て、藤原兼家へ伝えられた
大内裏の東南、二条大路の南、西洞院大路の東にあり、東西1町、南北2町の地を占めた
兼家が、その西対を内裏の清涼殿に似せてつくり世の非難を浴びた
兼家の後、東三条院詮子(兼家の娘)(円融天皇の女御)を経て藤原道長が所有し、
一条天皇、三条天皇の行幸を迎えている
<二条京極第>
兼家の別邸
新造のときの宴席で、源頼光が馬30頭を贈った
兼家が出家して「法興院」という寺院に改めて居住する
<政策実績>
能吏の挙用、銭貨の統制、僧侶の風儀の匡正などを行い、一条天皇の政治的安定に貢献する
兼家の子弟の藤原道隆や藤原道長らを公卿に抜擢するなど、弁官を全て自派に差し替える人事を行う
住民の訴えを入れて尾張国守藤原元命を罷免したりもし、有能な人材を登用し、新制を発布して官僚機構の再生に尽力する
梅宮祭・吉田祭・北野祭を公祭(官祭)と定めて、主催の神社を国家祭祀の対象として加え、
後の明神二十二社制度の基礎を作る
<打伏神子(うちふしのみこ)>
巫女の言葉をとても信じ、全て彼女の言葉に従ったともいわれる