藤原道長(ふじわらのみちなが)は、平安時代中期の藤原北家御堂流の公卿
父親 藤原兼家は三男、道長も五男であり、目立たない存在だったが、摂関まで昇り、藤原北家の全盛期を築いた
娘の3人を天皇の中宮にし、三后(皇后・皇太后・太皇太后)を全て自分の娘で占めた(一家三后)
後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる
晩年、財力をつぎ込み壮大な法成寺の建立に精力を傾け、「御堂関白」とも称されるようになる
摂関政治の崩壊後も、道長の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲し、五摂家と松殿家・醍醐家の諸家、
中御門流・御子左流・花山院流の諸流などを輩出する
<日記「御堂関白記」(国宝)(世界遺産)>
道長の33歳から56歳にかけての日記
自筆本14巻、書写本12巻が陽明文庫に保存されている
現存の自筆日記としては最古のものとされる
<家集「御堂関白集」>
<歌道>
拾遺和歌集から、勅撰入集は43首
和歌より漢詩の方を得意としていたといわれる
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」
(この世は私のためにあるようなものだ。満月は欠けていくが、私の思うようにならないことは一つもない)
<平等院>
道長の別荘だった宇治殿を、長男の藤原頼通が寺院にした
<法成寺>
晩年の道長が、自邸である土御門殿の東に、精力を傾けて建立し、藤原氏の氏寺とした壮大な寺院
藤原氏の財力がつぎ込まれて阿弥陀堂(無量寿院)など大伽藍が造営され、道長は「御堂関白」と称されるようになった
「極楽浄土のこのよにあらはれける」(大鏡)と、その壮麗さが謳われた
<法性寺>
左大臣 藤原忠平が、公家恒例被行脚読経の法相宗の寺院として建立し、藤原氏の氏寺として栄えた寺院
道長が40才にあたって、五大明王を安置する五大堂を建立した
<同聚院>
東福寺の塔頭の一つ
文渓元作が、法性寺に、道長が建立した五大堂の遺跡に創建する
<誠心院>
道長が、娘の上東門院に頼まれて、上東門院に仕えていた和泉式部のために、法成寺内の東北院の中に庵を建てて与えたのが由来
その庵は、後に「小御堂(こみどう)」と称される
<土御門殿>
道長の平安京の中の数ヶ所の豪邸の中でも、最も豪華な屋敷
道長に嫁いだ源倫子の父親 源雅信が、娘の結婚のときに道長を住まわせ、源雅信の死後に道長に継承されてその邸宅となった
当初は1町の規模から、拡張が行われた
<源氏物語>
主人公の光源氏(ひかるげんじ)は、道長をモデルにしているといわれる
道長は、「源氏物語」の第一読者で、著者 紫式部の局にやってきては原稿の催促をしていたといわれる
<一家立三后(一家三后)」>
三后(皇后・皇太后・太皇太后)をすべて道長の娘で占めた
長女 藤原彰子(上東門院):一条天皇の皇后(号は中宮)
次女 藤原妍子:三条天皇の皇后(号は中宮)
三女 藤原寛子:敦明親王の女御
四女 藤原威子:後一条天皇の皇后(号は中宮)
<臨終にあたり>
死期を悟った道長は、法成寺の東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の九体阿弥陀堂(無量寿院)に入り
九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、釈迦の涅槃と同じように、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、
自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したといわれる
<源頼光>
多田源氏の祖、満仲の子で、道長に仕えた
大江山の鬼退治や、土蜘蛛退治の故事が残る