藤原仲成(ふじわら の なかなり)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての公卿
妹 尚侍 藤原薬子が、桓武天皇の第一皇子(後の平城天皇)の寵愛を受け藤原仲成が重用され実権を持った
平城上皇と嵯峨天皇の兄弟対立を仕組んだ薬子の変で、藤原薬子・藤原仲成兄妹がら処罰された
桓武天皇の信任を受け長岡宮造営の中心人物だった藤原種継の長男
生まれつき粗野で凶暴で酒乱だったといわれる
妹 尚侍 藤原薬子が、桓武天皇の第一皇子(後の平城天皇)の寵愛を受け藤原仲成も重用され実権を持った
皇族や公家にも道理に背いた行動をしていたといわれ、射殺され「自ら招いたこと」といわれたといわれる
<上御霊神社>
当初に祀られた六所御霊の一祭神に藤原仲成も含まれていたが、後に、入れ替えられたといわれる
<死罪>
藤原仲成は、収監されていた右兵衛府で、左近衛将監紀 紀清成と右近衛将曹 住吉豊継により射殺された
平安時代に律令に基づいて死罪とされた数少ない事例とされる
これ以降、1156年(皇紀1816)保元元年の保元の乱で源為義が死刑執行されるまで346年間一件もなかった