藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は、奈良時代末期の公卿
桓武天皇の信任を受け、中納言となり、藤原小黒麻呂とともに平城京からの遷都のために山背国乙訓郡長岡村の地を視察し、
造長岡京使に任ぜられ、長岡宮造営の中心人物となる
長岡宮造営中に暗殺され、多くの処罰者をだし、早良親王も廃太子され無実を訴えるなか死亡した
785年(皇紀1445)延暦4年9月23日
桓武天皇が大和国へ行幸の不在の中
夜、松明を掲げて造営工事を検分中に、長岡宮の嶋町(朝堂院の西側にあった住宅街)で矢を射られて傷を負い、
翌日、自宅において、急遽帰京してきた桓武天皇の目の前で死去する
右兵衛督 五百枝王(いおえおう)は、桓武天皇に激怒され、暗殺犯の捜索を行う
実行犯とされた近衛府の兵士 伯耆桴麻呂と、中衛府の兵士 牡鹿木積麻呂が捉えられ、
主犯とされた大伴継人(おおともつぎひと)・大伴竹良(おおともたけら)、
共犯とされた佐伯高成(さえきのたかなり)・大伴真麻呂(おおともままろ)・大伴湊麻呂(おおともみなとまろ)・
東宮職高官 多治比浜人(たじひのはまひと)は即日処刑された
事件直前の8月28日に死去していた大伴家持が首謀者として、官籍から除名された
大伴家持の子 大伴永主(おおともながぬし)・大伴継人の子 大伴国道(おおともくにみち)・東宮職次官 紀白麻呂(きのしろまろ)・
三国広見(みくにのひろみ)らは流刑にされる
捜索にあたっていた右兵衛督 五百枝王も流刑にされる
吉備泉(きびのいずみ)・藤原末茂(ふじわらのすえしげ)らは左遷される
さらに、大伴継人らは、大伴家持が、桓武天皇の実弟の皇太子 早良親王を即位させるために企んだものであることを自供し、
中納言 藤原小黒麻呂は、早良親王の謀叛を強く主張
早良親王は、廃太子され、乙訓寺に幽閉され、配流の途中で憤死する
その後、早良親王の怨霊に悩まされるようになった桓武天皇は、長岡京から平安京へ遷都
御霊神社(上御霊神社)を創建し、早良親王の御霊を鎮めようとした