細川忠興(ほそかわ ただおき)(Tadaoki Hosokawa)

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名

生年:1563年(皇紀2223)永禄6年11月13日
没年:1645年(皇紀2305)正保2年12月2日
享年:83

父親:細川藤孝細川幽斎) 長男
母親:麝香(光寿院)(沼田光兼の娘)

幼名:熊千代(くまちよ)
通称:与一郎(よいちろう)
別称:長岡忠興(ながおか ただおき)

正室:明智光秀の娘の玉子(通称:細川ガラシャ

丹後国宮津城主・豊前国小倉藩初代藩主
肥後細川家初代

別号:茶人 細川三斎(ほそかわ さんさい)
利休七哲の一人
茶道流派三斎流の開祖

出身:京都
墓地:大徳寺 塔頭 高桐院

 細川忠興(ほそかわ ただおき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名

 少年時代から父親 細川藤孝の盟友 明智光秀の与力として各地を転戦して指導を受けながら活躍をし、
 豊臣秀吉・徳川家慶にも武功を評価され重用される

 明智光秀の娘の玉子細川ガラシャ)を正室とするが、宿敵 石田三成が玉子を人質に取ろうとして自害に追い込み、
関ヶ原の戦いでは豊臣恩顧の大名の中でも最初に東軍につき復讐を果たす

【細川忠興の歴史・経緯】


【細川忠興】

 「茶道四祖伝書」には「忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である」と記されている

 明智光秀から、丹波平定のとき「降伏してくる者をむやみに殺してはならぬ」と諭されている

 <格言・名言>
 「天下の御政は、角なる物に、丸き蓋をしたる様に遊ばされ、能く候はん」

 「家来共に二度までは教へ申候、三度目には、切り申候」

 「家中の者共は、将棋の駒と思ふべし」
 「将棋の駒にはそれぞれの働きがある。
 桂馬は頭に歩をつかれると、取ることも逃れることもできない駒だが、一枚隔て筋違飛びの働きをする。
 それは飛車も角も及ばぬものだ。人もこのように、一つの役目では不調法でも、他のことで役立つことがある。
 何もかも、ただ一人でできる者は百人いてもおらぬものだ。主君たる者は、このことを心得ておくべきである」
 との訓戒をしている

 「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」


 <愛刀「歌仙兼定(かせんかねさだ)」>
 細川忠興が帯刀していた刀剣「濃州関住兼定(のうしゅうせきかねさだ)」の愛称
 室町時代の刀工 二代兼定(にだいかねさだ)の作
 細川家伝来の美術品を保存する永青文庫(東京都文京区)の所蔵

 短気な細川忠興は、36名の家臣をこの刀剣で手討ちにしたといわれ、
平安時代の和歌の36人の名手を「三十六歌仙」と称されたことから名付けられた

 正室 玉子と言葉を交わした庭師や、玉子の料理に髪の毛が入っていた料理心を斬りつけたといわれる


 <不倶戴天(ふぐたいてん)の敵 石田三成>
 細川忠興は、豊臣政権において軍務を担った武断派の武将
 石田三成は、主に政務を担った文治派の武将だった

 関白 豊臣秀次が、豊臣秀吉に切腹を命じられた秀次事件のとき、
 細川忠興が、豊臣秀次に借金していたことで、石田三成により謀反の容疑を捏造され失脚されかけた

 朝鮮征伐の文禄の役において、石田三成が、武断派の武将たちの都合の悪い情報を豊臣秀吉に報告し
細川忠興も豊臣秀吉から身に覚えのない叱責をされた

 豊臣秀吉が死去した直後、細川忠興を中心とした武断派の7名の武将が石田三成征伐を行い
大坂屋敷を襲撃する

 関ヶ原の戦いの前哨戦ので陸奥国(東北地方北西部)へ出陣していたとき
石田三成の軍が、正室 玉子を人質とするため大坂城内の玉造の細川屋敷を襲撃
 正室 玉子は、人質となることを拒み自害させられる


 <織田信長自筆書状(重要文化財)>
 離反した松永久秀との信貴山城の戦いにおいて、
細川忠興は、真っ先に支城 片岡城内へと突入し松永軍を討伐し、猛将ぶりを発揮する
 この武功により、織田信長の自筆の感状(戦功を称える賞状)を受ける(長岡与一郎宛)
 織田信長の自筆の感状は極めて少なく、現存で確実に判明している唯一のもの
 細川家伝来の美術品を保存する永青文庫(東京都文京区)の所蔵


 <茶道
 千利休の7人の高弟「利休七哲」の一人

 茶道流派「三斎流(さんさいりゅう)」の祖

 「細川三斎茶書」を著する

 師の千利休豊臣秀吉に切腹を命じられたとき、豊臣秀吉のお咎めを恐れず師のもとへ参じたのは、
細川忠興と茶人武将 古田織部だけだった

 千利休の形見として贈られた石灯籠を、墓石に使ったといわれる

 細川忠興は、多くの合戦に従軍し自身の使用する武具にも深い関心を示し独自の考案を凝らしたが

 <肥後拵(ひごこしらえ)>

 細川忠興が創作した拵(こしらえ)(日本刀の外装)
 茶道の感覚と、抜き打ちに適した居合の実用性をかね備え、堅牢で雅のある平常指(へいじょうさし)として、
儀礼用ではなく普段から用いられた
 幕末の江戸などで多くの武士に好まれた

 <越中具足(えっちゅうぐそく)>
 細川忠興により完成され好んで使用された甲冑
 身動きがしやすいよう最小限の防御を基本にして、吹返や袖がなく、
臑当(すねあて)には立挙(たてあげ)・家地(いえじ)もないシンプルで軽い物
 細川忠興が、関ヶ原の戦いで使用した「黒糸威二枚胴具足」は「御吉例の甲冑」として
歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された


 <越中ふんどし>
 細川忠興の考案


 <教養人>
 和歌・有職故実・絵画・猿楽にも精通していたといわれる


 <細川家の家紋>
 当初は「松笠菱(まつかさひし)」
 足利将軍家から拝領した「桐紋(きりもん)」を用いた

 細川忠興は、「九曜紋(くようもん)」に代える
 織田信長の「小柄(こづか)」に施されていたのを気に入り、自ら織田信長に願い出て使用を許可された
 その後、九曜紋と区別するため、中心の円と周囲の円がやや離れている「離れ九曜」を定紋とする

【細川忠興ゆかりの地】

 <高桐院
 大徳寺塔頭
 細川忠興が、父親 細川幽斎(細川藤孝)の菩提所として、
細川幽斎の弟にあたる玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)を開山として創建したのが由来

 細川忠興の像が立っている
 細川忠興と正室 細川ガラシャのお墓もあり、墓塔は茶師 千利休が秘蔵した灯籠だったもの


 <茶室 松向軒高桐院)>
 細川忠興の設計


 <勝龍寺城
 織田信長より、父親 細川幽斎に与えられた城
 明智光秀の娘 細川ガラシャ)との結婚式を行い、新婚時代の3年間を過ごした

 勝竜寺城公園には、細川忠興との銅像が本丸跡に立てられている


 <浄土院
 細川忠興が作庭した養林庵庭園(京都府指定文化財)がある
 正室 細川ガラシャが熱心なキリスト教徒で、十字架の形をしている織部灯篭が置かれている


 <宮津藩
 本能寺の変の後、喪中で隠居した父親 細川藤孝から譲られ宮津城主となる

【その他】

 <長岡京ガラシャ祭
 11月第2日曜日
 正室 細川ガラシャと新婚時代を過ごした勝龍寺城跡が、勝竜寺城公園として復興した記念に行われ始めた


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