石田梅岩(いしだばいがん)は、江戸時代中期の思想家・倫理学者
町人らが容易に理解でき、生き方の指針とされた町人哲学「石門心学」の開祖
商人の営利活動を積極的に認め、勤勉と倹約を奨励した
江戸時代中期
1685年(皇紀2345)貞享2年9月15日
丹波国桑田郡東懸村(現在の亀岡市東別院町東掛)に、農家の次男として生まれる
1695年(皇紀2355)元禄8年
11歳で、京都の呉服屋に丁稚奉公に出る
1707年(皇紀2367)宝永4年
23歳のとき、再び京都の商家 黒柳家に奉公に出る
奉公のかたわら、独学で「人の人たる道」を追求する
1727年(皇紀2387)享保12年
在家の仏教者 小栗了雲に師事して、思想家への道を歩み始める
1729年(皇紀2389)享保14年
44歳の時、車屋町通御池上ルの借家だった自宅で無料講座を開き、心学の普及を行う
1737年(皇紀2397)元文2年
自宅が手狭になってきたため、堺町通蛸薬師上ルに移る
1739年(皇紀2399)元文4年
「都鄙問答」を刊行
1744年(皇紀2404)延享元年
「倹約斉家論」を刊行
1744年(皇紀2404)延享元年9月24日
享年60で、死去される
1786年(皇紀2446)天明6年
亀岡において、持養舎が設立される
1934年(皇紀2594)昭和9年
石田梅岩先生顕彰会が結成される
1964年(皇紀2624)昭和39年
生家の前庭に、梅岩公園、記念館が建設される
石田梅岩(いしだばいがん)は、石門心学の開祖
長年、京都の商家で奉公をしながら、独学で神道・仏教・儒教を学び、町人らの生き方の指針となる心学を求め、
「人の人たる道」を追求して、日常生活の道徳的な手本として確立させていく
士農工商の職分の中で、
「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職に何ら劣るものではない」として商人の支持を集めた
自宅で無料で心学を説き、広く一般に呼びかけ、出入り自由、男女が共に学ぶという異例の講義で、
最盛期には、門人400名もいた
京都呉服商人の手島堵庵・「松翁道話」の著者 布施松翁・心学道話「鳩翁道話」の著者 柴田鳩翁・
斎藤全門・大島有隣など優れた人材を輩出した
<心学講舎>
石田梅岩の教えは、手島堵庵など多くの弟子たちに受け継がれ、全国に心学講舎が設立された
京都の明倫舎、大阪の明誠舎、江戸の参前舎、亀岡の持養舎が、拠点となる
現在も、石田梅岩生誕地に開道舎がある
<都鄙問答>
1739年(皇紀2399)元文4年の刊行
「共生の理念」
世間ノアリサマヲ見レバ、商人ノヤウニ見ヘテ盗人アリ
實ノ商人ハ先モ立、我モ立ツコトヲ思フナリ
紛レモノハ人ヲダマシテ、其座ヲスマス
是ヲ一列ニ云フベキニハアラズ
<倹約斉家論>
1744年(皇紀2404)延享元年
「負けるが勝ち」などの言葉も残している
<梅岩塾>
亀岡市余部町の道の駅ガレリア亀岡内に、石田梅巌記念施設「梅岩塾」が併設されている
<石田梅岩座像>
亀岡駅の改札前に置かれている
<石田梅巌邸跡>
中京区堺町通蛸薬師上ル東側
石田梅岩が無料講座を開いて思想を説いた自宅跡の石碑が立っている
<石田梅岩生誕地>
亀岡市東別院町東掛
生家が残っており、お墓や記念館がある
<石田梅岩墓前祭>
期日:命日9月24日
場所:春現寺(石田梅岩生誕地の近く)
<石田梅岩心学の道>
石田梅岩が亀岡から京都に赴くときに通ったといわれる道
石田梅岩生誕地から亀岡駅までが整備されている