梶原景季(かじわら かげすえ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将
梶原氏は、坂東八平氏の流れの一族で、源氏から平氏に代え従っていたが、
治承・寿永の乱(源平合戦)で源頼朝を救い臣従する
武勇と教養に優れ、父親 梶原景時とともに鎌倉幕府の有力御家人となる
武勇と教養に優れていた
「秋風に 草木の露を払はせて 君が越ゆれば 関守もなし」(吾妻鏡)
1189年(皇紀1849)文治5年
奥州征伐のとき、景季が源頼朝に献じた歌
<宇治川先陣之碑>
宇治橋の東側、宇治川中州となっている橘島に立っている
治承・寿永の乱(源平合戦)の宇治川の戦いでの佐々木高綱と梶原景季との先陣争いが起こる
「平家物語」によると
源頼朝の2頭の秘蔵の名馬 池月(生食)(いけづき)と磨墨(するすみ)
上洛前に、景季が、池月を所望するが、磨墨を賜った
上洛中に、景季は、佐々木高綱が、池月に騎乗しているのを見て驚いた
源義経軍は、宇治川を挟んで木曾義仲と対峙する
平等院から宇治川に向かって、景季が先に進んでいた
佐々木高綱が、景季に「馬の腹帯がゆるんでいるから締めなおしたほうがよい」と声をかけ、追い越し先に川に馬を乗り入れていく
景季は、騙されたと分かり慌てて佐々木高綱を追いかけ、川の中でも先陣争いとなるが、池月は急流にもひるまず進む
佐々木高綱が、先に渡り切り
「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったといわれる