春日局(かすがのつぼね)は、江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母となった女性
「春日局」とは朝廷(後水尾天皇)から賜った称号
明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘
幕府内に絶大な権力を持ち、江戸城大奥の基礎を築く
家康の主君でもあった信長を討った斎藤利三の娘を、家康が孫の乳母に採用して、将軍の跡継ぎ問題や、
後水尾天皇譲位問題にも携わったことは、明智光秀の生き延びといわれ、徳川政権を裏で統制した怪僧 天海の計らいといわれる
明智光秀(天海)は、かつての重臣の斎藤利三の娘に、幕府の生活面(江戸城大奥)を統制させ、
共に江戸幕府の基礎を築き上げ、300年も続く安定した世の中の基盤を作り上げたといわれる
<麟祥院>
花園の妙心寺の本坊の北に立つ塔頭で春日局菩提所と称される
家光が、乳母の春日局の追悼のため創立する
御霊屋(おたまや)には、小堀遠州作の春日局木像が安置されている
御霊屋は、春日局が、仙洞女御所にあった釣殿を、後水尾天皇より下賜ったもの
墓地には、春日局の夫だった稲葉家のお墓もある
<金戒光明寺>
春日局の墓所がある
<西翁院>
春日局作の本尊阿弥陀如来が祀られている
<真如堂>
本堂の南面にある立皮桜(たてかわざくら)(京都市指定巨樹名木)は、春日局が植えたともいわれる
<湯島 麟祥院>
春日局が、湯島の地に、境内地1万坪、寺領300石を賜り建立した
家光が、春日局の還暦祝に狩野探幽に描かせた、緋袴を着た肖像画が所蔵されている
<七色飯(なないろめし)>
家光は、生まれつき体が弱く性格も内向的だったといわれる
春日局は、好き嫌いが多い家光の健康改善のために偏食を直す工夫をこらしたといわれる
白飯・赤飯・麦飯・粟飯・菜飯・干し飯・引き割り飯・湯取り飯など、さまざまなご飯が用意された
干し飯は、干したご飯をお湯で戻したもの
引き割り飯は、お米を砕いて細かくしてから炊いたご飯のこと
湯取り飯は、蒸らす前のご飯を釜から出して、粘り気を洗い流してから蒸したもの
<病気平癒祈願>
家光が疱瘡で重体になったとき、自分は今後一生涯、薬を飲まないことを誓い、
山王社と東照宮に参拝して家光の平癒を祈願したといわれる
その後、家光が回復して、春日局が病気になったとき、家光は自ら薬を飲ませようとしたが、
春日局は飲んだふりをして吐き出して誓いを守ったといわれる
<辞世の句>
「西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな」
意味としては、
「西の方へ沈んでいく美しい月を心にとどめながら、仏の教えに従い、今日やっと、煩悩の多いこの世から逃れることができます」
<東京都文京区春日>
地名は、春日局の屋敷があったことに由来している
<春日局の直筆の手紙>
2012年(皇紀2672)平成24年、西本願寺で春日局の直筆の手紙が見つかった
春日局の奉公人の母親が西本願寺にいると知り、春日局が自ら筆をとり、
「私の奉公人を母親に会わせてやって、西本願寺で奉公させてもらえたらありがたい」と依頼されている
<慈眼大師 天海との係わり>
天海は、徳川家康・徳川秀忠・家光に仕え、江戸幕府を裏で統制し、江戸幕府の基礎を築き上げた怪僧
本能寺の変、山崎の戦いで、織田信長の恐政を絶ち、安定した世の中を築こうとした明智光秀の生き延びといわれる
春日局は、明智光秀の重臣だった斎藤利三の娘
家康の主君でもあった信長を討った斎藤利三の娘を、家康が孫の乳母にすることはあり得ないといわれる
また、駿府城にいた家康が、乳母の一女性から、将軍跡継ぎ問題の直訴を聞き入れ、江戸に赴き采配することもあり得ないといわれる
さらに、武将の娘が、後水尾天皇と面談ができたのも、かつて朝廷と友好関係を築いていた光秀(天海)の計らいであるといわれる
春日局や同僚の英勝院などが、天海(明智光秀)を深く信頼し、日頃から常に、江戸城内の吉凶を占ってもらったり、
家光の側室の安産祈願や、家光の子の誕生の名付けを頼んだなどといわれる
(家康の息子 徳川秀忠の「秀」、孫の家光の「光」は、明智光秀の「秀」と「光」といわれる)
春日局に離婚されて浪人になっていた元夫 稲葉正成は、松平忠昌の家老として召し出され、後に2万石の大名となる
春日局の長男 稲葉正勝は老中になる
春日局の実兄 斎藤利宗も、家光に5千石の旗本として任命されている
明智光秀(天海)は、かつての重臣の斎藤利三の娘に、幕府の生活面(江戸城大奥)を統制させ、
共に江戸幕府の基礎を築き上げ、300年も続く安定した世の中の基盤を作り上げたといわれる