松平定信(まつだいらさだのぶ)は、江戸時代の大名、老中
陸奥白河藩第3代藩主
白河藩主としては、江戸時代後期の名君の一人として高く評価されている
<寛政の改革>
江戸幕府の三大改革の一つ
農業を重視し、荒廃農村の再建・飢饉対策の米備蓄・七分金積立による江戸町会所設立・人足寄場などを設置する
棄捐令により、困窮した旗本・御家人を救済する
朱子学を正学とする「寛政異学の禁」を出し、湯島の聖堂を幕府の学問所として整備拡充する
医学館・和学講談所の整備などを実施する
「大政委任論」を表明し、曖昧だった朝廷との関係を明確にして幕府権威の強化を図る
ロシア使節ラクスマンの通商要求に、「鎖国は祖法である」と表明し、江戸湾防備計画を自ら視察して立案
北方防備のため北国郡代の新設など国防体制を検討する
朝鮮蔑視観から通信使の延期、対馬聘礼も行った
学問を好み、100以上の著書を残している
<「花月草紙」>
師の大塚孝綽ともに国学には否定的で、本居宣長の「もののあはれ」などを批判している
<「宇下人言」>
「宇下人言」は「定信」の字を分解してて付けた名前といわれる
幼少の頃は短気だったが、師の大塚孝綽・黒沢雉岡や水野為長の3名の指導によって性格が改まった旨が記されている
儒学(朱子学)を尊重し、自らの欲望をも極端に抑えており、
「房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと感じたことは一度もない」と記されている
<「集古十種」>
85巻
古画古物を模写した約2,000点から成る図録集で、古文物の研究をし、編集刊行されている
<「寛政重修諸家譜」>
<「徳川実記」>
<「大名かたぎ」>
<「心の草紙」>
<京都御所>
1788年(皇紀2448)天明8年
天明の大火により里内裏となっていた土御門東洞院殿も焼失し、老中 松平定信が幕府の命を受けて内裏の造営にあたる
有職故実家 裏松固禅が作成した大内裏図考証にもとづき、基づき古制にならって復元させる
現在の京都御所の原型となった