松永久秀(まつながひさひで)は、戦国時代の大和国の戦国大名
弱体化した足利幕府に代わる三好政権の当主 三好長慶に仕え、13代将軍 足利義輝の傍で活躍する
その後の、三好三人衆、三好氏を滅ぼし、将軍 足利義輝を襲い自害させる
足利義昭と織田信長の上洛にともない従い、大和国を平定
織田信長に2度反逆して、信貴山城で自害する
下剋上の典型的人物といわれる
茶人として、名器といわれる茶道具を収集していたといわれる
<戦国時代の三大梟雄(きょうゆう)>
残忍で強く荒々しい人物
斎藤道三・宇喜多直家・松永久秀
<イメージ>
下剋上の代表・謀反癖は、後世の物語によるイメージといわれる
<城郭建築の第一人者>
天守閣と多聞作りを創始する
多聞とは、城壁の上に塀のように作られた長屋風の矢倉、走り櫓 (はしりやぐら)
松永久秀により大和の多聞城に初めて造られた
<茶人>
武野紹鴎に師事し、茶人としての交流は広かった
茶釜「古天明平蜘蛛」や、茄子茶入「九十九髪茄子」など、名器とされる茶道具を多く所有していた
信貴山城を包囲した佐久間信盛は、名器 古天明平蜘蛛を差し出すよう求めたが、
久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首は、信長にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊そう」と返答したといわれる
<本圀寺>
松永久秀の屋敷跡といわれる
松永久秀が、本圀寺塔頭戒善院の檀徒であったことから、松永家の供養のため戒善院墓地として寄進される
<墓所>
妙恵会総墓地(本圀寺境内)
その他、片岡山達磨寺(奈良県)にも墓地がある
<子孫>
俳人の松永貞徳は甥孫
儒学者の松永尺五は甥曾孫
<命日と東大寺大仏殿が焼き払われた日>
1567年(皇紀2227)永禄10年10月10日
松永久秀が、東大寺に布陣した三好三人衆を奇襲して撃退したとき、東大寺大仏殿に火が付き焼失する
10年後の
1577年(皇紀2237)天正10月10日
信長の軍に信貴山城が包囲され、火を付け自害する
<曲直瀬道三>
正親町天皇、毛利元就、織田信長など戦国武将から重んじられた医者
松永久秀には性技指南書「黄素妙論(こうそみょうろん)」を伝授したといわれる