源実朝(みなもとのさねとも)は、鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍・歌人
12歳で将軍となるが、実権は北条氏や御家人らにより抑えられ、
京風の文化と生活とを享受することに傾注し、高い官位を得ることを望んだ
後鳥羽上皇が好んでいた蹴鞠と和歌を好み
92首が勅撰和歌集に入集され、小倉百人一首にも選ばれている
源実朝は、12歳で鎌倉幕府第3代征夷大将軍となるが、
北条氏や御家人らにより、政治においては期待できないと分かり、
京風の文化と生活とを享受することに傾注し、高い官位を得ることを望んだ
後鳥羽上皇の寵愛する西御方の姉妹で、坊門家の権大納言 藤原信清の娘を妻にする
後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌も好んだ
詠んだ和歌30首を藤原定家に送って指導を受ける
「万葉集」「古今和歌集」など古来の和歌を研究して独自の歌風を大成した
92首が勅撰和歌集に入集されている
<小倉百人一首第93番>
「世の中は常にもがもな渚(なぎさ)漕ぐ海人(あま)の小舟の綱手(つなで)かなしも」
鎌倉右大臣とされている
<新勅撰和歌集>
25首が入集されている
<家集「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)」>
源実朝の死後にまとめられた
全3巻に、約700首の詠が収められている
<辞世の和歌>
「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」
庭の梅を見て詠んだといわれる
「禁忌の和歌」と評される
<六孫王神社>
源実朝の妻 本覚尼(ほんがくに)が、暗殺された夫を弔うために、
六孫王神社の北隣に遍照心院(大通寺)を建立し、六孫王神社は、その鎮守社として再建された
<児水不動明王の「児の水(ちごのみず)」>
本覚尼が、暗殺された夫 源実朝を弔うために建立した遍照心院(大通寺)の門前にあったので「尼寺の水」とも称される
眼病に霊験があるといわれる
<鹿王院>
舎利殿(駄都殿)の宝塔の中には、源実朝により、中国 宋の都臨安(現杭州)の能仁寺から鎌倉に伝来した釈迦の歯である
仏牙舎利(ぶつげしゃり)が納められている
10月15日の開山忌(舎利会)
この日だけ、源実朝が宋から得たという中国伝来の仏舎牙利が公開される
<小倉百人一首文芸苑 野々宮地区>
西側の手前に歌碑が建てられている
<源実朝歌碑>
鴨川(左京区下堤町)に建てられている
「世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも」(小倉百人一首第93番)
<寿福寺の墓所>
胴体のお墓
寿福寺境内に掘られたやぐらの内に石層塔が設けられている
実朝の墓の隣には、母親 北条政子のお墓がある
寿福寺は、源義朝の邸宅跡に建てられた寺院
<金剛寺の御首塚(みしるしづか)>
首が葬られた塚
公暁の追っ手の武常晴が大聖山金剛寺(神奈川県秦野市)(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれる