源頼政(みなもとのよりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人
鳥羽法皇に仕え、皇后 美福門院を護り、保元の乱と平治の乱で勝者側についたことで、
平氏政権下で源氏の長老として中央政界で活躍した
毎晩、近衛天皇を悩ましていた鵺を退治して、丹波(現在の亀岡市)に領地を賜り、
鵺退治にちなんで「矢代荘(やしろのしょう)」と称され、後に「矢田荘」と称されるようになる
平清盛の推挙により、平家社会の中で、清和源氏としては突出した従三位に叙せられ公卿となる
後白河法皇の第三皇子 以仁王と組んで平家打倒の挙兵をするが負けて自害するが、平家滅亡のキッカケとなる
現在の亀岡市の山陰道のそばに、源頼政の首塚 頼政塚に祀られている
頼政は、源頼光の系統の摂津源氏
<父親>
源仲政は、摂津源氏の嫡流であった源頼綱の次男
源頼光のひ孫にあたる
<母親>
藤原友実女は、藤原南家貞嗣流の出身
<兄弟>
頼政は、源仲政の長子
源頼行:頼政の同母弟で、1157年(皇紀1817)保元2年に有罪とされ自害する
源光重(深栖三郎):源光信(美濃源氏)の息子であったが、後に源仲政の養子となる
源泰政(紀奉政):池田奉貞の養子となり池田氏を継ぐ
法性寺殿三河:歌人で、藤原忠通家の女房となる
皇后宮美濃:歌人で、令子内親王家の女房となる
女子:権中納言 藤原経定の妻となる
<妻と子>
源斉頼女:清和源氏満政流の出身で、源斉頼の孫娘ともいわれる
源仲綱:嫡子、歌人で、以仁王の挙兵で頼政と共に討死
二条院讃岐:歌人で、葉室家一族 宮内大輔藤原重頼の妻となる
<側室>
菖蒲前:伊豆長岡古奈の生まれで、もと鳥羽法皇の女房で絶世の美女といわれる
頼政との間に2子あり
平治の乱の後は、頼政の郎党の猪野隼太(勝谷右京)に導かれて安芸国賀茂郡に逃れ、
頼政と早世の息子 種若丸の菩提を弔うために観現寺を建立する
<生母不明の子>
源頼兼:大内守護、鎌倉幕府御家人となる
源広綱:頼政の末子、鎌倉幕府御家人となる
頼尊:阿闍梨となる
散尊:阿闍梨となる
女:四条家の一族 右京大夫藤原隆保の妻となる
女:藤原北家勧修寺流の一族 太皇太后宮権大進藤原憲定の妻となる
女:信濃村上氏の一族 中務権大輔源経業(源明国)の妻となる
<養子>
源国政:叔父 源国直の子
源宗頼:弟 源頼行の子
源政綱:弟 源頼行の子
源兼綱:弟 源頼行の子、以仁王との挙兵で頼政と共に討死
源仲家:源義賢の嫡子、以仁王との挙兵で頼政と共に討死
<墓所>
平等院塔頭 最勝院にある
南側の入口の左手奥に石造宝篋院塔が建つ
頼政の命日である5月26日には、毎年法要が営まれている
絹本著色 源頼政像一幅や、源頼政の念持仏といわれる片袖阿弥陀像が所蔵されている
<平等院 扇の芝>
終焉の地
宇治川の戦いに敗れ、平等院に逃れ、観音堂の北側で軍扇を敷き、辞世の句を残し、渡辺唱の介錯で切腹自刃した
<頼政塚>
亀岡市西つつじヶ丘の山陰道のそばの小丘に、頼政の首塚があり、祀られている
<安井金比羅宮>
祭神として、大物主神、崇徳天皇、源頼政が合祀されている
<古世地蔵堂>
源頼政の守り本尊「矢の根地蔵」が祀られている
手には、錫杖(しゃくじょう)の代わりに弓矢を持っている珍しいもの
<神明神社>
源頼政が、近衛天皇を毎夜悩ました鵺(ぬえ)を退治するときに祈願された
源頼政は、御礼に、神明神社に2本の矢尻を奉納したといわれる
<浄土院>
源頼政の作といわれる「和漢朗詠集巻下断簡(平等院切)」を所蔵する
巻下雑部のうちの禁中・古京の全文十五行文
<神蔵寺>
源頼政と以仁王が平家討伐の挙兵をしたとき、神蔵寺の僧兵も三井寺(園城寺)の僧兵とともに挙兵し、宇治川の戦いに加わった
<大将軍神社>
「平家物語」に記されている源頼政の鵺退治の伝説の森「鵺の森」がある
<長尾天満宮>
参道の石段の途中に「頼政道跡の碑」がある
以仁王と挙兵した源頼政が、作戦の失敗で三井寺から奈良へ落ちるときに通った道
<源三位(げんざんみ)>
頼政の通称
平清盛の推挙により、平家社会の中で、清和源氏としては突出して従三位に叙せられ公卿となる
頼政の従三位昇進は、九条兼実が日記「玉葉」に「第一之珍事也」と記しているほど異例のことといわれる
<鵺退治の伝説>
近衛天皇は、毎晩、鵺(ぬえ)と称される、気味悪い声で鳴く怪物におびえ悩まされていた
頼政は、御所を警護し、艮(北東)の方角から黒雲が湧き上がったところ、弓で射り仕留める
頼政は、恩賞として御剣「獅子王(ししおう)」と丹波の領地を賜わる
「獅子王」の刃長は二尺五寸五分(約77.3cm)反り9分(約2.7cm)の小ぶりの太刀
その後、明治天皇へと献上され、現在は東京国立博物館に収蔵されている
丹波の領地は、鵺退治にちなんで「矢代荘(やしろのしょう)」と称され、後に「矢田荘」と称されるようになる
<名弓「雷上動」>
楚の国の弓の名人 養由基(ようゆうき)のものだった
大江山の鬼退治などの武勲がある、頼政の高祖父 源頼光が、
夢に現れた養由基の娘 枡花女(しょうかじょ)から雷上動と水破・兵破の2本の矢をもらったといわれる
源頼光から、源頼國、源頼綱、源仲政(頼政の父親)、頼政へと伝えられたものといわれる
頼政は、武将でもあり、優れた歌人としても評価される
藤原俊成や俊恵、殷富門院大輔など多くの著名な歌人と交流があったといわれる
晩年は、公卿となるために従三位への昇進を強く望み、官位への不満をもらす歌が多くなっている
頼政の歌は「詞花集」など勅撰和歌集に59首が入集されている
家集「源三位頼政集」が残る
<獅子王の授与において>
近衛天皇から、名刀「獅子王」を賜ったときに、
男色家ともいわれる左大臣 藤原頼長が、授与を務め、頼政に歌いかける
「ほととぎす 名をも雲居に あぐるかな」
(ホトトギスが 空の雲まで鳴き声を響かせるように あなたも宮中に名を轟かせましたね)
頼政は、
「弓張り月のいるにまかせて」
(三日月の方向へ弓を射っただけです)と詠み答える
「弓張り月(三日月)」と「弓」、「月のいる(月の方向)」と「射る」を掛けたこの歌に、
近衛天皇は「弓も歌もたいした腕前だ」と称賛したといわれる
<殿上人になる前に>
55歳の頼政が、兵庫頭の身分のままであったときに詠んだ歌
「人知れぬ 大内山の山守は 木がくれてのみ 月を見るかな」
(宮中から離れた大内山の山守で、木々のすき間から天皇を拝見するだけの身分です)
この歌が評価されて、昇殿を許され殿上人となることができたといわれる
<従三位になる前に>
正四位下に昇叙してから7年もたち、公卿になりたいとの念願から詠んだ歌
「登るべき たよりなき身は 木の下に 椎をひろひて 世をわたるかな」
(昇格するすべない身分で 落ちた椎の実を拾って(四位のまま) 暮らしていくことになるのか)
この歌を聞いた平清盛は、頼政をまだ三位にととまっていることに気が付き、従三位に推挙したといわれる
<鳥羽法皇の女房 菖蒲御前を娶る前に>
頼政は、絶世美女の鳥羽法皇の女房 菖蒲御前に一目惚れして手紙を送ったりしていた
それが鳥羽法皇にも知れ、鳥羽法皇は、菖蒲御前と他2人の女性に同じ着物を着せて、菖蒲御前を見分けろといわれる
頼政は、
「五月雨に 沼の石垣水こえて 何かあやめ 引きぞわづらふ」
(わたしの胸の思いが溢れてしまい どれがあやめなのか引き抜くのをためらってしまっています)
鳥羽法皇は、この歌に感心して、頼政が菖蒲御前を妻にすることを認めたといわれる
<辞世の句>
「埋れ木の 花さく事もなかりしに 身のなる果ぞ 悲しかりける」
<能の演目「頼政」>
舞台:平等院
主人公:(前シテ)老翁、(後シテ)源頼政の霊
宇治橋での戦いで平家軍300人と戦った源頼政の話
<狂言「通圓」>
能の演目「頼政」のパロディで能様式となっている
<石見神楽「頼政(よりまさ)」>
源頼政の鵺退治を題材にした神楽
<祇園祭 浄妙山>
宇治橋での源頼政と平家の戦いで、一来法師が、三井寺の僧兵 浄妙坊の頭上を飛び越える様子が表されている
<時代行列 弓箭組列>
時代行列の最後尾を務める
丹波国南桑田郡、船井郡において、源頼政の配下のもと、弓箭の技を究め、組織的に子孫にも受け継がれている
<香道 菖蒲香(あやめこう)>
夏に行われる組香の一つ
源平盛衰記 第16巻の源頼政の歌「五月雨に 沼の石垣水こえて いづれかあやめ引きそわづらふ」にちなんで行われる