源義家(みなもとのよしいえ)(Yoshiie Minamoto)

平安時代後期の武将

生年:1039年(皇紀1699)長暦3年
没年:1106年(皇紀1766)嘉承元年7月15日
享年:68

父親:源頼義
長男
母親:上野介 平直方の娘

幼名:不動丸、源太丸
通称:八幡太郎義家

官位:正四位下、出羽守、下野守、陸奥守、鎮守府将軍、贈正三位

出身:六条堀川(八幡太郎義家誕生地)
お墓:河内国石川郡壺井

 源義家(みなもとのよしいえ)は、平安時代後期の武将

 清和天皇を祖とする河内源氏の嫡流で、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先にあたる

 奥州を平定し私財で武士たちをねぎらい信望を得て、東国における源氏勢力の基盤を作った

 無官位の頃から白河天皇行幸の護衛などでも活躍し、白河法皇の信望を得て、武士で初めて院昇殿を許された

【源義家の歴史・経緯】

【源義家】

 <源義家(みなもとのよしいえ)>
 清和天皇を祖とする河内源氏の嫡流で、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先にあたる

 義家は、平安時代後期の新興武士勢力の象徴とされる

 7歳の春、石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と称する

 出羽守(山形県・秋田県)・下野守(栃木県)・陸奥守(福島県・宮城県・岩手県・青森県)を歴任
 鎮守府将軍などに任じられ、
 奥州(東北地方)を平定し私財で武士たちをねぎらい信望を得て、東国における源氏勢力の基盤を作った


 無官位の頃から白河天皇行幸の護衛などでも活躍し、白河法皇の信望を得て、武士で初めて院昇殿を許された

 白河法皇の強引な引き上げに公卿たちが反発する
 中御門右大臣 藤原宗忠は、日記「中右記」にて
「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。昇殿をゆるさるるに、世人甘心せざるの気あるか。但し言うなかれ」と記する

 死去した時には「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と追悼する


 <後三年の役での残忍非道>
 清原家衡が、金沢柵(かねざわさく)(秋田県横手市)に立て籠ったとき
 源義家は、投降してきた女子供を見せしめとして、その場で殺害する
 これにより、誰も砦から外に出れなくなり、兵糧攻めにより飢えさせ、砦にいた者を全員殺害したといわれる

 源義家の次男 源義親が反乱を起こし、平正盛に追討されたとき
 中御門右大臣 藤原宗忠は、日記「中右記」にて
「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。積悪の余り、遂に子孫に及ぶか」と記す


 <後白河法皇の今様歌謡集「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)巻第二>
 「鷲の棲む深山(みやま)には なべての鳥は棲むものか同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや」という歌が収録されている


 <合戦中の和歌
 前九年の役で、衣川(岩手県西磐井郡平泉町)から敗走する敵将 安倍貞任を追う源義家は、
矢を構えて「衣のたてはほころびにけり」(衣の縦糸がほころぶように衣川の建物は滅んでしまったぞ)と大声で詠む
 安倍貞任は振り返り「年を経し糸の乱れの苦しさに」(年月を経た糸が乱れるように衣川の建物も滅んでしまった)と
返答したといわれる
 源義家は、追われていても歌を返してきたことに感心し、安倍貞任へ矢を射るのをやめたといわれる


 <勅撰和歌集「千載和歌集」>
 源義家の和歌が1首が収録されている
 「吹く風を 勿来の関(なこそのせき)と思へども 道もせに散る 山桜かな」
 詞書に「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる」とある

【源義家ゆかりの地】

 <若宮八幡宮
 <八幡太郎義家誕生地
 源義家が誕生した、源頼義の源氏六条堀川館の跡地
 六条の地には、多く源氏の邸宅があった

 <左女牛井之跡
 源氏六条堀川館の邸宅内にあった名水の井戸
 「義家の誕生水」とも称される


 <石清水八幡宮
 7歳の春、石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎義家」と称する
 八幡大神を源氏の総氏神とされた


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