ねね(Nene) 高台院 北政所

戦国時代から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室

生年:不詳 1548年(皇紀2208)天文17年頃
没年:1624年(皇紀2284)寛永元年9月6日
享年:不明

父親:杉原定利
次女
母親:朝日殿
夫:豊臣秀吉

幼名:禰々(ねね)
名:吉子、寧子
通称:おね、祢(ね)、寧(ねい)、子為(ねい)
称号:北政所(きたのまんどころ)
院号:高台院(こうだいいん)
法名:高台院湖月心公

官位:従一位

出身:尾張国
墓地:高台寺

 ねねは、戦国時代から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室

 晩年は高台寺で過ごし、霊屋の木像の下に遺骨が収められており、周辺の散策通を「ねねの道」と称される

【ねねの経緯】

【ねねのゆかりの地】

 <高台寺
 ねねが、生母を供養するために創建した寺院
 晩年、豊臣秀吉と過ごした伏見城の化粧御殿と前庭(現在の圓徳院)を移築して移り住んだ
 炎上する大阪城を高台寺の二階建ての茶室「時雨亭」から見ていたといわれる
 霊屋の高台院木像の下に遺骨が収められている

 <圓徳院
 ねねの発願で創建された高台寺塔頭の一つ
 伏見城の化粧御殿の前庭が移されたもの

 <ねねの道
 高台寺周辺の人気観光スポットを徒歩で繋ぐ参道
 ねねにちなんで名付けられている

 <伏見城
 豊臣秀吉と過ごした居城

 <観智院
 客殿(国宝)は、ねねの寄進により、観智院第10世 亮盛(りょうせい)が再建したもの
 建物の玄関を入ったところの建物、仏殿の手前にある

【ねねの故事】

 <家臣>
 豊臣秀吉との間に子供がなく、親類縁者を養子や家臣として養育していった
 加藤清正や福島正則など多くの武将に慕われていた

 <「醍醐花見之和歌」>
 「ともなひて 眺めにあかじ深雪山(みゆきやま) かへるさ惜しき 花の面影」

 <イエズス会>
 ねね自身は改宗することはなかったが、イエズス会の宣教師たちには多くの便宜を図ったといわれる
 ルイス・フロイスは、「日本史」の中で、
「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と記している
 また、ねねを「王妃」「女王」と表記している

【その他】

 <北政所(きたのまんどころ)>
 平安時代の三位以上の公卿の正室の呼称
 あるいは、宣旨によって、摂政や関白の正室に特に授けられた称号

 平安時代の貴族は寝殿造の屋敷に住んでおり、正殿の寝殿の北に「北対」と称される居住棟があり、
そこで、正室が、家政の諸事を行っていたことに由来する

 豊臣秀吉の正室 ねねには、豊臣秀吉の関白の就任に伴い、従三位が授けられている
 その直後ぐらいから、「北政所」と称されるようになり、ねねのことを示す固有名詞のようになる

 <大政所(おおまんどころ)>
 「大北政所」の略称
 摂政関白の生母に贈られる称号
 豊臣秀吉の生母 なかに称号として贈られてからは、なかのことを示す固有名詞のようになる


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