ねねは、戦国時代から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室
晩年は高台寺で過ごし、霊屋の木像の下に遺骨が収められており、周辺の散策通を「ねねの道」と称される
<高台寺>
ねねが、生母を供養するために創建した寺院
晩年、豊臣秀吉と過ごした伏見城の化粧御殿と前庭(現在の圓徳院)を移築して移り住んだ
炎上する大阪城を高台寺の二階建ての茶室「時雨亭」から見ていたといわれる
霊屋の高台院木像の下に遺骨が収められている
<圓徳院>
ねねの発願で創建された高台寺の塔頭の一つ
伏見城の化粧御殿の前庭が移されたもの
<ねねの道>
高台寺周辺の人気観光スポットを徒歩で繋ぐ参道
ねねにちなんで名付けられている
<伏見城>
豊臣秀吉と過ごした居城
<観智院>
客殿(国宝)は、ねねの寄進により、観智院第10世 亮盛(りょうせい)が再建したもの
建物の玄関を入ったところの建物、仏殿の手前にある
<家臣>
豊臣秀吉との間に子供がなく、親類縁者を養子や家臣として養育していった
加藤清正や福島正則など多くの武将に慕われていた
<「醍醐花見之和歌」>
「ともなひて 眺めにあかじ深雪山(みゆきやま) かへるさ惜しき 花の面影」
<イエズス会>
ねね自身は改宗することはなかったが、イエズス会の宣教師たちには多くの便宜を図ったといわれる
ルイス・フロイスは、「日本史」の中で、
「関白殿下の妻は異教徒であるが、大変な人格者で、彼女に頼めば解決できないことはない」と記している
また、ねねを「王妃」「女王」と表記している
<北政所(きたのまんどころ)>
平安時代の三位以上の公卿の正室の呼称
あるいは、宣旨によって、摂政や関白の正室に特に授けられた称号
平安時代の貴族は寝殿造の屋敷に住んでおり、正殿の寝殿の北に「北対」と称される居住棟があり、
そこで、正室が、家政の諸事を行っていたことに由来する
豊臣秀吉の正室 ねねには、豊臣秀吉の関白の就任に伴い、従三位が授けられている
その直後ぐらいから、「北政所」と称されるようになり、ねねのことを示す固有名詞のようになる
<大政所(おおまんどころ)>
「大北政所」の略称
摂政関白の生母に贈られる称号
豊臣秀吉の生母 なかに称号として贈られてからは、なかのことを示す固有名詞のようになる