織田信秀(おだのぶひで)(Nobuhide Oda)

戦国時代の尾張国の武将

生年:1510年(皇紀2170)永正7年(異説あり)
没年:1551年(皇紀2211)天文20年3月3日(異説あり)
享年:42

父親:織田信定(尾張国 勝幡城 城主)
長男
母親:含笑院殿(いぬゐ)(織田良頼の娘)

通称:三郎
自称:弾正忠、備後守
法名:万松院桃巌道見

尾張下四郡(尾張半国)を支配する守護代織田家の一族
主家 織田大和守家の重臣
清洲三奉行(きよすさんぶぎょう)の一人

本拠:勝幡城(海東郡)

三男:織田信長

 織田信秀(おだのぶひで)は、戦国時代の尾張国の武将

 織田信長の父親

 尾張下四郡(尾張半国)を支配し、足利三管領の一つの斯波氏に属する守護代 織田大和守家の一族
 湊町として繁栄していた津島や商業都市の熱田を支配下に置き、その経済力で主家や他の織田一族を凌駕していくが、
尾張国全域を支配することはできなかった

【織田信秀の経緯】

【織田信秀のゆかりの地】

 <京都御所
 1543年(皇紀2203)天文12年
 応仁の乱で荒廃した内裏を、後奈良天皇の要請を受けて、修理費4000貫を献上し復興される

 <伊勢神宮
 1541年(皇紀2201)天文10年
 遷宮にあたり、材木や銭七百貫文を献上した

 <黄梅院
 1562年(皇紀2222)永禄5年
 織田信長が初めて入洛したとき、父親 織田信秀の追善菩提のために、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に命じて創建された

【織田信秀の子孫】

 <織田信長
 織田信秀の三男(次男ともいわれる)だが、嫡男として育てられる
 
 <大名茶人 有楽斎如庵>
 織田信秀の11男で、本名 織田長益(おだながます)
 兄 織田信長の死後、剃髪し、千利休に師事して茶の湯の宗匠となる、利休十哲の一人

 <お犬の方>
 織田信秀の娘
 佐治信方の正室、死別後、細川昭元の正室となる

 <お市の方>
 織田信秀の娘 秀子
 浅井長政の継室となり、茶々(豊臣秀吉の側室)、お江(徳川秀忠の継室)などをもうける
 浅井家が滅亡後、柴田勝家の正室となる


【京都検定 第8回2級】

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