織田信長(おだのぶなが)は、戦国時代の尾張国(現在の愛知県)出身の武将
尾張美濃で勢力を得て、浅井長政とともに足利義昭の警護をして上洛を果たす
足利義昭を擁立して第15代将軍に就任させるが、後に不仲となり追放する
入洛後は、浄土真宗の総本山 本願寺を弾圧し続け、延暦寺の焼き討ちを強行し比叡山全体を焼き払う
富豪からは「唐物名物」を強制的に買い上げる「名物狩り」や、将軍 足利義昭のための壮大な邸宅「武家御所」の創建を強要し、
それに反発した上京の焼き討ちを行い、約7000軒が焼失してしまう
中国地方へ出陣のために本能寺に宿泊していたところを、明智光秀に討たれ、恐政による全国統一が断たれる
<建勲神社>
祭神:織田信長・織田信忠の父子
1880年(皇紀2540)明治13年
豊臣秀吉が船岡山を織田信長の霊地に定めたことに由来して、東京の建勲神社が、船岡山の山頂に遷される
<本能寺>
6月2日 (本能寺の変)
明智光秀軍が突然京都に進軍し、本能寺の織田信長を襲撃する
織田信長は、自ら槍を手に奮闘したが、居間に戻り、自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したといわれる
<延暦寺>
1571年(皇紀2231)元亀2年9月12日
延暦寺の焼き討ちを強行し、比叡山全体を焼き払った
その復興には豊臣秀吉や徳川家康らによって長年かかって再建される
<大徳寺>
1582年(皇紀2242)天正10年
豊臣秀吉が、織田信長の葬儀を大徳寺で1週間にわたり盛大に行う
これにならう諸大名の塔頭の建立が相次いだ
<総見院>
1582年(皇紀2242)天正10年
大徳寺の塔頭の一つで、豊臣秀吉が建立した織田信長の菩提寺
<東寺>
1568年(皇紀2228)永禄11年9月
足利義昭の警護をし浅井長政とともに上洛を果たし、足利義昭を清水寺に居させ、織田信長は、東寺に陣を構え洛中を制圧した
<石清水八幡宮>
本殿の棟の間に架けられている黄金の樋
1580年(皇紀2240)天正8年
織田信長によって寄進されたもの
<真如院>
将軍 足利義昭が入洛したときに、織田信長が、真如院で迎えるために作庭した枯山水庭園がある
<泉涌寺>
楊貴妃観音堂(ようきひかんののんどう)
1575年(皇紀2235)天正3年
織田信長の建立
<妙覚寺>
本能寺とともに、織田信長の上洛時の宿所としてもたびたび使われる
<三室戸寺>
1573年(皇紀2233)天正元年
槇島の合戦(まきしまのがっせん)で、織田信長と争った足利義昭に協力したため、織田信長の焼き討ちにより焼失する
<こぬか薬師>
本尊 薬師如来像
美濃国(現在の岐阜県)の医徳堂に安置されていたのを、織田信長の勧請で薬師院に移されたといわれる
<建仁寺>
方丈前庭「大雄苑(だいおうえん)」の西南隅の木の茂みの中の、七重の石塔
織田有楽斎(おだゆうらくさい)が、兄 織田信長の追善の為に建てた供養塔
<神蔵寺>
1575年(皇紀2235)天正3年
織田信長の命により全焼させられる
<悲田院>
1573年(皇紀2233)天正元年
織田信長の上京焼討ちで焼失する
<玉鳳院>
方丈(重要文化財)
西側に豊臣秀吉、織田信長、織田信忠、武田信玄などの位牌が安置される
<大雲院>
貞安上人が、正親町天皇から二条新御所の跡地を賜って、織田信長・織田信忠父子の菩提を祀るために建立したのが由来
寺号は、織田信忠の法名にちなんで「大雲院」とされる
<毘沙門堂>
天正年間(1573年〜1592年)
織田信長の兵火で全焼
<二条御所跡>
織田信長が、将軍 足利義昭のために造営した二条城(現在の二条城とは異なる)の跡
<武家御所>
1567年(皇紀2227)永禄10年
上洛を果した翌年、室町勘解由小路(現在の室町下立売通付近)に将軍 足利義昭のための邸宅を造営
上京の者に、強制的に協力を課し、70日で完成させる
壮大な邸宅は、「武家御所」「公方之御城」などと称された
<名物狩り>
京の富豪から「唐物名物」「天下の名物」を強制に出させ買い上げた
<京中焼打ち>
1573年(皇紀2233)天正元年4月
織田信長の強行に反発した上京・下京の住民に激怒した織田信長は、上京を焼き討ちにし、家屋約7000軒が焼失した
<時代祭>
時代行列の中で、織田信長が兵を率いて上洛した時の様子を表す「織田公上洛列」が行進する
織田信長、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、柴田勝家などが参列する
<千利休>
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、後に、豊臣秀吉に仕え信任を受けた
<ルイス・フロイス>
イエズス会のポルトガル人宣教師
1569年(皇紀2229)永禄12年
二条城の建築現場で織田信長と対面し、信任を得て畿内での布教を許可される
<洛中洛外図上杉本(国宝)>
京都の市街(洛中)と郊外(洛外)の風景や住民の生活を描いた風俗画
1565年(皇紀2225)永禄8年9月
狩野永徳が、足利義輝に命じられ描いたものが完成するが足利義輝はすでに死去しており、織田信長が入手したといわれる
1574年(皇紀2234)天正2年
織田信長が、上杉謙信に贈ったとされる