織田信忠(おだのぶただ)(Nobutada Oda)

戦国時代から 安土桃山時代にかけての武将

生年:1557年(皇紀2217)弘治3年
没年:1582年(皇紀2242)天正10年6月2日
享年:26

父親:織田信長
長男
母親:不明
乳母:慈徳院(滝川氏)

幼名:奇妙丸
名前:勘九郎信重(のぶしげ)、信忠

官位:従三位・左近衛中将

織田政権第2代当主
岐阜城主

生まれ:尾張国

建勲神社の祭神

 織田信忠(おだのぶただ)は、戦国時代から 安土桃山時代にかけての武将

 織田信長から家督を譲られ、織田政権第2代当主

 甲斐武田氏を滅亡させた後、明智光秀による本能寺の変で、父親 織田信長本能寺、信忠は二条新御所にて自害する

【織田信忠の歴史・経緯】

【織田信忠】

 織田政権第2代当主、岐阜城主

 美濃国・尾張国・甲斐国・信濃国の4ヶ国を支配することとなる


 <武勲>
 織田信忠は、織田軍の総大将として、
 武田勝頼から岩村城を奪還
 信貴山城の戦いで、松永久秀を討つ
 甲州征伐では、甲斐武田氏を滅亡させた

 父親 織田信長が、比叡山 延暦寺の全山焼討で4,000人を焼死させたり
 長島一向一揆の降伏後に、火攻めにて城中の2万人を焼死させたように
 織田信忠も、甲斐武田氏を滅亡後に、家臣らを匿った臨済宗の恵林寺を焼き払い、快川紹喜や寺の僧ら150人程を焼き殺している


 <本能寺の変
 甲斐武田氏を滅亡させた後、明智光秀による奇襲で、父親 織田信長本能寺、信忠は二条新御所にて自害する

 織田信忠には、京都から脱出できる可能性があり、家臣から安土に逃げて再起を図るように勧められたが、
 織田信忠は「明智光秀の企てならば逃げられない、無様に逃げ出して途中で果てることこそ無念である」と自害したといわれる


【織田信忠ゆかりの地】

 <建勲神社
 船岡山に、父親 織田信長とともに祭神として祀られている


 <本能寺
 父親 織田信長の京都での定宿


 <妙覚寺
 織田信忠の京都での定宿
 日蓮宗の寺院


 <二条新御所
 妙覚寺の西隣にあった
 織田信長から、正親町天皇皇太子 誠仁親王に献上された堅牢な屋敷
 本能寺の変により、織田信忠が自害したところ


 <玉鳳院
 方丈(重要文化財)の 前方下段の東側には、徳川家康や徳川家の位牌、
 西側に豊臣秀吉、織田信長、織田信忠、武田信玄などの位牌が安置される
 開山堂の東北隅に、織田信長・織田信忠父子の石塔が立っている


 <大雲院
 貞安上人が、正親町天皇から二条新御所の跡地を賜って、織田信長・織田信忠父子の菩提を祀るために建立したのが由来
 寺号は、織田信忠の法名にちなんで「大雲院」とされる
 墓所には、織田信長・織田信忠父子の碑がある


 <阿弥陀寺
 明智光秀が、織田家と縁のあった開山 玉誉清玉上人を呼び丁重に葬るよう依頼されたといわれる
 開山 玉誉清玉上人が、織田信長、織田信忠父子の骨灰を集め祀ったといわれる
 本能寺の変の翌日、清玉上人は、明智光秀の陣を訪ね、本能寺で討死した者と、二条城で自刃した織田信忠などの供養と
100名以上の遺体の収容の許可を得て葬り、位牌を作成して弔った
 本堂には、本尊 阿弥陀如来像の傍らに、織田信長、織田信忠父子の木像が安置されている
 墓地には、織田信長、織田信忠父子のお墓がある
 本能寺の変で討死した諸臣約120名のお墓もある


 <総見院
 境内の北にある墓地に、織田家一族の7基の五輪塔が立っている
 織田信長のお墓があり、左隣りに次男 信雄、その左に信雄の長男 秀雄
 右隣りに長男 信忠、その右へ四男 羽柴秀勝(豊臣秀吉の養子となる)、七男 信高、十男 信好



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