小野篁(おのの たかむら)は、平安時代初期の公卿、文人
博識多才で、漢詩は白楽天、書は王羲之・王献之父子に匹敵するといわれ、和歌も優れていた
昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府(地獄)において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたといわれる冥土通いの伝説がある
平安時代初期の公卿、漢詩人・和歌・書家
博識多才で、漢詩は白楽天、書は王羲之・王献之父子に匹敵するといわれた
「文徳実録」の小野篁卒伝に「当時文章天下無双」と記され
「三代実録」に「詩家ノ宗匠」と称されている
身長六尺二寸(約188cm)で、当時では巨漢であり、青少年時代は弓馬の士であった
とても母親孝行であったといわれる
金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったといわれる
<「野相公(やしょうこう)」「野宰相(やさいしょう)」「野狂(やきょう)」>
小野篁の通称
一途で奔放な性格で、奇行も多かったことから称されたいたといわれる
<「令義解(りょうのぎげ)」>
養老令の注釈書
清原夏野・小野篁らによる編纂
小野篁は、序文も執筆した
<漢詩文>
漢詩「西道謡(さいどうよう)」
現存しない
小野篁が、遣唐使のときに理不尽を受けて、遣唐使制度や朝廷を批判した漢詩
嵯峨上皇の怒りに触れ、隠岐国に流罪を受けることになった
漢詩「謫行吟(たつこうぎん)」
現存しない
小野篁が、隠岐国に配流される道中で作った漢詩
七言十韻(一句が七文字で10の韻を踏んだ詩)の壮麗な文章と優美深遠な趣きに、文人たちを感動させたといわれる
漢集「野相公集(やしょうこうしょう)5巻」
現存しない
その小野篁の作が、「経国集」2首、「扶桑集」4首、「本朝文粋」4編、「和漢朗詠集」11首、
「新撰朗詠集」3首、「今鏡」1首、「河海抄(かかいしよう)」1首が残されている
<和歌>
勅撰和歌集へ合計13首が入集されている
「古今和歌集」6首、「新古今和歌集」2首、「続古今和歌集」2首、「玉葉集」2首、「新千載和歌集」1首
「わたの原八十島(やそしま)かけて漕ぎ(こぎ)出でぬと 人には告げよ海人(あま)の釣舟」
(小倉百人一首11番)参議篁(小野篁)
官位を剥奪され、隠岐国(島根県隠岐諸島)への流罪に処されるときの心情を表す悲哀に満ちた歌
意訳:釣舟の漁師に、都にいる愛する人に「大海原に散らばる多くの島々を目指して舟を出した」と伝えておくれ
「泣く涙雨と降らなむわたり川水まさりなばかへりくるがに」(古今和歌集)
<歌集「小野篁集」>
物語的で「篁物語」とも称される
後世の小野篁の以外の作品も含まれる
<冥土通い>
小野篁は、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府(地獄)において閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたといわれる
冥府との往還には井戸が用いられ、六道珍皇寺(死の六道、入口)と福正寺(嵯峨薬師寺)(生の六道、出口)にあったとされる
小野篁の冥官伝説は、室町時代には、定着していたといわれる
<「江談抄(ごうだんしょう)」巻3の39>
藤原高藤が急死したが、後日、生還をして
「小野篁が地獄の冥官として閻魔大王の補佐をしていたおかげで現世に戻ってこられた」と語ったたことが記されている
<「江談抄」巻3の38>
小野篁が悪ふざけで、藤原高藤を百鬼夜行と遭遇させたことが記されている
<「今昔物語集」巻第20第45話「小野篁依情助西三条大臣語(小野篁 情に依り西三条の大臣を助くる語)」>
藤原良相が病死したとき、閻魔庁の小野篁によって蘇生したことが記されている
<「元亨釈書」巻9矢田寺(金剛山寺)の満米上人の項>
小野篁が、閻魔大王に菩薩戒を授ける人物として満米上人を紹介したとされる
「矢田地蔵縁起」として描かれ、矢田寺(重要文化財指定、京都国立博物館寄託)などに残されている
物語に基づき、矢田寺の梵鐘を「送り鐘」と称して、六道珍皇寺の「迎え鐘」と対とされる
<「宇治拾遺物語」巻3「小野篁広才事」>
嵯峨天皇が宮中に書かれていた落書き「無悪善」を、小野篁に読むように強要する
小野篁は、「悪さが無くば善けん」(「嵯峨天皇がいなければ良いのに」の意図)と読んだ
嵯峨天皇は「これが読めたのは自身が書いたからに違いない」と非難するが、小野篁は「どんな文章でも読めます」と弁明する
嵯峨天皇は「子子子子子子子子子子子子」を読むようにいう
小野篁は、「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と読み解き感心を得たといわれる
<「江談抄」巻3の42>
嵯峨天皇が小野篁に「一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝」を読むようにいう
小野篁は「月夜には来ぬ人待たるかき曇り雨も降らなん恋つつも寝ん」と読み解いて感銘を受けたといわれる
<「江談抄」巻4の5>
嵯峨天皇が大学寮の視察にいったとき、学んでいた小野篁に、
宮中に秘蔵されていた「白氏文集(はくしもんじゅう)」の白居易(中国 唐の漢詩人)の詩の一文字を変えて
「登楼遥望往来船(楼に登りて遥かに望む往来の船)」と示したところ、
小野篁は「遥かに望む を 空しく望む に変えた方が良いと思います」と進言し、
改変されたその一文字「遥」を「空」に添削して返しことで、
嵯峨天皇は驚嘆し「小野篁は白居易と通じる詩の才を持っている」と称賛しましたといわれる
<「野馬台詩(歌行詩)」注釈>
小野篁は、竹から生まれたといわれる
<小野篁卿墓>
お墓が、紫野の堀川通に面して、島津製作所紫野工場の東隣にある
紫式部墓と並んでいる
愛欲を描き人々をたぶらかせた罪で地獄に落とされた紫式部を、小野篁が閻魔大王に救済を依頼したといわれる
<六道珍皇寺>
かつて鳥辺野の葬場の入口にあり、小野篁が冥土通いをしたところで六道の辻と称される
お盆には、祖先の霊を迎えに参拝する六道まいりが行われる
閻魔堂(えんまどう)には、小野篁作といわれる木像 閻魔大王像と、等身大の小野篁像が安置されている
本堂西側には、小野篁が冥界へ入っていったといわれる「黄泉がえりの井戸」がある
<清凉寺>
西門近くの薬師寺(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱が立っている
小野篁が冥土通いした冥土から現世へ戻る出口「生の六道」が福生寺(現在の薬師寺)にあったといわれる
六道の辻があったといわれ「六道町」という地名が残っている
<引接寺>
小野篁が、自ら刻んだ閻魔法王を祀り、小祠を建てて「閻魔堂」と称したのが由来といわれる
小野篁は、「お精霊迎え(おしょうらいむかえ)」の法儀を授かり、塔婆供養と迎え鐘によって、現世浄化の根本道場とした
閻魔前町の地名が残っている
<六地蔵めぐり>
「六地蔵縁起」(大善寺)によると
平安時代初期
小野篁が一度は亡くなるが、冥土において生身の地蔵菩薩に出会い、教えに従って蘇生し、
木幡山(こばたやま)の一本の桜の大木から六体の地蔵菩薩像を刻み、木幡の里(現在の大善寺)に安置したといわれる
大善寺 地蔵菩薩立像(重要文化財)(伏見六地蔵)
浄禅寺 鳥羽地蔵
地蔵寺 桂地蔵
源光寺 常盤地蔵(乙子の地蔵)
上善寺 鞍馬口地蔵(姉子の地蔵)(深泥池地蔵)
徳林庵 山科地蔵
<本成寺>
小野篁の作といわれる木像 地蔵菩薩像(痰切り地蔵)が地蔵堂に祀られている
<葬送地>
平安時代初期
いたるところで風葬されることが多かったため、宮廷官吏の小野篁(おののたかむら)が5ヶ所に葬場を制定したといわれる
鳥辺野(洛東)
化野(洛西)
蓮台野(洛北)
華頂(洛東)
西院
<本能寺>
真跡 本能寺切(国宝)を所蔵
藤原行成が鳳凰文の雲母刷のある4枚の唐紙に、菅原道真・小野篁・紀長谷雄の文書を記したといわれるもの
<小野氏>
飛鳥時代初期から平安時代中期にかけて活躍した氏族
孝昭天皇の皇子 天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)を祖とするといわれる
山城国愛宕郡小野郷(現在の左京区上高野辺り)、山城国宇治郡小野郷(現在の山科区小野)、
近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市)などを拠点としていた
<足利学校(栃木県足利市)>
日本最古の学校といわれる
小野篁が、創始者の1人とされる
小倉百人一首の注釈本「百人一首拾穂抄(しゅうすいしょう)」に
「関東の足利学校ハ篁のとりたてにて学生を教えし所と云」と記載されている
<小野小町>
平安時代前期の絶世の美女といわれた女流歌人
小野篁の孫といわれる
<小野道風(おのみちかぜ)>
小野篁の孫
平安時代前期に和様書道の基礎を築いた能書家
<邦画「鴨川ホルモー>
安倍(モデル:安倍晴明)の友人で一緒に青竜会に勧誘された「高村幸一(たかむらこういち)」の名前のモデルとなっている