静御前(しずかごぜん)は、平安時代末期の白拍子(しらびょうし)
神泉苑での雨乞いで白拍子を舞い霊験をあらわした
源義経が、静御前の水干に立烏帽子の舞姿にひと目惚れし、側室として迎えるが、
源頼朝に敗れ都落ちし、生き別れになり、源頼朝に捕らえられる
<静神社(しずかじんじゃ)(京丹後市網野町磯)>
丹後七姫の一人として静御前が祀られている
源義経と生き別れになり、出家して故郷に隠れるように住み、夫の無事と子の冥福を祈ったといわれる
<静御前生家跡(京丹後市網野町磯)>
静神社より徒歩3分ほどのところに、静御前の生誕の地があり、記念碑が立てられている
海を見渡せる小高い丘にある
1782年(皇紀2442)天明2年
遺品や、源義経から静御前宛の恋文などが残されていたが火災で消失したといわれる
<神泉苑>
静御前が、雨乞いの舞を舞っていたといわれ、後白河法皇の雨乞いの故事がある
源義経と静御前が出会った所といわれる
源義経は、静御前の水干に立烏帽子の舞姿にひと目惚れし、側室として迎えた
<神泉苑祭>
5月2日から4日
静御前の雨乞いの故事にちなみ、池に架かる赤い橋 法成橋の上で静御前の舞が奉納される
<時代祭の時代行列>
中世婦人列に、水干(すいかん)、単小袖(ひとえこそで)、白の切袴を着け、立鳥帽子をかぶり、鼓を持った白拍子の姿で登場する
一人の童女が従い、絹傘を差しかけている
<白沙村荘>
全高約7mの国東塔(くにさきとう)は、別府に置かれていた静御前の供養塔を、橋本関雪が京都まで運んできたもの
<静御前と雨乞いの故事>
「義経記」によると
大日照りとなって賀茂川や桂川の水は流れず、井戸の水も枯れてしまう
比叡山(延暦寺)・三井寺・東大寺・興福寺などの霊験がある高僧を100人が集まり
仁王経を読み上げ祈願するが、八大龍王のご利益もなかった
後白河法皇が、容姿端麗な白拍子を100人集めて、神泉苑の池で雨乞いの舞を舞わす
99人が舞って雨を祈願するが効果がなく、
あと一人が舞うくらいで効験があるだろうかとの声も聞かれたが、
後白河法皇は、最後の白拍子にも舞わせてみろと計らう
最後に、静御前が舞うことになり、舞の半ばで、愛宕山の方から黒い雨雲があらわれ
洛中に雨雲がかかると、八大龍王が鳴き現れ、稲妻を光らせて人々を驚かせ、
三日間、大雨が降り続いて国土は安穏になった
後白河法皇は感激されて、静御前の舞には知見があるとして「日本一」と称された
<鶴岡八幡宮の舞のときの歌った和歌>
静御前が、鶴岡八幡宮において、源頼朝に舞を強要されたときに、夫 源義経を慕って読んだ歌
源頼朝が激怒するが、北条政子が「私が静御前の立場ならきっと同じことをする」と取りなして命は救われた
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
(吉野山に積もる白い雪を踏み分けて、山の奥深くに入ってしまわれたあの人が恋しい)
「しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな」
(静、静と繰り返し私の名前を呼んだあの人が輝いていた頃に、もう一度戻れたらどんなに良いことだろう)
謡曲「吉野静」
謡曲「二人静(ふたりしずか」
浄瑠璃「義経千本桜」
物語「義経記」
室町時代に記されたもの
<白拍子(しらびょうし)>
平安時代後期から鎌倉時代頃まで流行した歌舞を舞う遊女のこと
立烏帽子(たてえぼし)と水干(すいかん)(水張りにして干した布で作った狩衣[かりぎぬ]の一種)をまとい、
太刀を腰につけた男装で、今様(いまよう)(七・五調4句の新様式の歌謡)を謡って舞う