角倉了以(すみのくらりょうい)は、安土桃山時代、江戸時代初期の豪商
朱印船(角倉船)による安南国などとの海外貿易や、土木技術と工夫を駆使して大堰川(保津川)・高瀬川などの
河川疎通事業を行った
琵琶湖疏水の設計者である田邊朔郎と共に「水運の父」とされる
角倉家の本姓は「吉田」
「角倉」は、営んでいた土倉業(質屋)から付けられたといわれる
近江国犬上郡吉田村の出身とされ、室町時代中期に上洛し、室町幕府お抱えの医者を勤める
その後、医業で得た財産を元に土倉業を営む
角倉了以の祖父 吉田宗忠は、土倉業を長男に、次男 吉田宗桂に医者を継がせる
医者 吉田宗桂の元に生まれた角倉了以は、医業を弟に譲り、祖父からの土倉業(質屋)の財産で、
巨大な高利貸資本を蓄積していく
角倉了以の死去の後
1614年(皇紀2274)慶長19年10月
大坂冬の陣では徳川家康に従い、兵器・食糧の調達運搬に尽力する
安南(現在のベトナム)・ルソンへの貿易船角倉船は、角倉素庵に継がれ、朱印船旅船が16回行われる
1617年(皇紀2277)元和3年
江戸城改築のときに、富士山からの材木伐出にあたり、政商としての地位を確立する
角倉家は、茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに、「京の三長者」といわれる権勢を誇っていた
明治維新後
角倉家は高瀬川支配を罷免され、京都府に移管される
<角倉氏邸跡>
木屋町通二条下ル西側一之舟入町
<角倉了以別邸跡>
木屋町通二条下ル東側東生洲町
現在は、高瀬川二条苑になっている
<角倉了以翁顕彰碑>
高瀬川の川沿い木屋町通に立つ顕彰碑
<二尊院>
角倉了以・角倉素庵父子のお墓がある
<千光寺>
角倉了以が建立する
保津川(大堰川)を望む大悲閣に角倉了以の木像が安置されている
<瑞泉寺>
角倉了以が、豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺院
<保津川(大堰川)>
1605年(皇紀2265)慶長10年
保津川(大堰川)開掘の願書を出し、30数km上流から嵯峨までの舟運に関する権利を得る
1606年(皇紀2266)慶長11年
開削を始めて6カ月後に竣工させる
工事に当たっては、角倉了以も自ら石割斧を振るって開削にあたったといわれる
保津峡の開削によって、丹波地方の農作物が船によって嵐山まで運ばれるようになり、嵐山近辺は商人の往来で賑わい
発展したと記録されている
丹波の材木も筏で運送されるようになり、険しい山道を人馬で搬送していたことに比べ、格段に利便性がよくなった
角倉了以は、莫大な資金を投じて開削したが、開削後の水運による収益をすべて独占する事で、さらなる利益を得たとされる
角倉了以は、行舟術にすぐれた舟夫18人を嵯峨に招いて、新しい航行技術を発展させた
舟夫の宿泊は、当初、弘源寺であったが、大雄寺の荒れ地を開拓し舟夫の居住地を作り、
現在は右京区嵯峨角倉町と地名に残っている
<高瀬川>
角倉了以は、方広寺大仏殿再建のための資材輸送を命じられ、淀川の上流で調達した木材を筏にして、
鴨川を遡って三条まで運び込んだ
このとき、鴨川を遡る事が難しいことを知り、京と伏見の間に運河を造るために高瀬川の開削をしたといわれる
1611年(皇紀2271)慶長16年
第一次工事が開始され、息子の角倉素庵も協力した
1614年(皇紀2274)慶長19年
工事が完成する
高度な土木が用いられ、水が濁らないよう樋門や汚水抜きの溝なども造られた
開削には7万5千両を費やしたとされたが、角倉家には年々1万両以上納められたといわれる