橘俊綱(たちばなのとしつな)は、平安時代中期から後期の官人・歌人
関白 藤原頼通の次男だが、播磨守 橘俊遠の養子となり橘姓を名乗る
摂関家の生まれだが、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった
和歌、笙、笛、琵琶などにも優れていた
「今鏡」140段には、「伏見にては、時の歌詠みども集へて、和歌の会絶ゆるよなかりけり」と記されており、
伏見の別邸で、頻繁に歌合・歌会を催すなど、風雅風流に過ごし「伏見長者」とも称された
能因法師・良暹法師・源経信・藤原通俊・藤原範永などと交流し、当時の歌壇に大きな影響力を持っていた
「後拾遺和歌集」など、勅撰和歌集に12首が入集されている
<即成院>
現在は、泉涌寺の塔頭となっている
父親 藤原頼通の宇治殿(後の平等院)から宇治川を挟んだ伏見側の対岸に、自分の別邸を建てた
自ら造園を行い、「中右記」では「風流勝他、水石幽奇也」と賞賛されたといわれる
俊綱が、白河上皇に対して、白河上皇が造営した鳥羽殿より伏見の別邸の方が優れていると話したといわれる
その後、父親が別荘を寺院にしたように、自分の別邸の持仏堂を寺院 光明院とした
<作庭記>
日本で最も古い庭園の解説本、作庭に関わる伝書といわれる
平安時代の中期に書かれ、原本は失われている
現存する最古の写本「谷村家本」によると、前田家に伝わったものといわれる
寝殿造の庭園に関する意匠と施工法が記されている
絵図は全くなく、すべて文章で書かれている