平忠盛(たいらのただもり)は、平安時代末期の武将
伊勢平氏で初めて昇殿を許された北面武士・追討使として白河法皇院政・鳥羽上皇院政の武力的中心の役割を果たす
諸国の受領を歴任し、日宋貿易を行い莫大な富を蓄え、武力と財力は次代に引き継がれ、後の平氏政権の礎となった
朝廷は、源氏の台頭を抑えるために平忠盛を重用し、白河法皇の寵臣、鳥羽上皇の近臣として活躍した
「平家物語」では、序盤に登場する
「富累百万、奴僕満国、武威軼人」と評される
忠盛が死去したとき、藤原頼長は「宇槐記抄」にて、
「数国の吏を経、富巨万を累ね、奴僕国に満ち、武威人にすぐ。人となり恭倹、いまだかつて奢侈の行いあらず、
時人これを惜しむ」とその死を悼んだ
賀茂社臨時祭では新舞人に選ばれ、
その華やかな装いは「道に光花を施し、万事耳目を驚かす。誠に希代の勝事なり」と周囲を驚嘆させたといわれる
<和歌>
和歌を好み、多くの歌会・歌合に参加していた
忠盛の妻 宗子は崇徳上皇の子 重仁親王の乳母で、
鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳上皇を中心に展開しており、
たびたび崇徳上皇主催の歌会に参加し、崇徳上皇にとって忠盛はもっとも頼りにできる人物だった
「久安百首」や家集「平忠盛集」などがある
<日宋貿易>
忠盛は越前守在任中に日宋貿易の巨利に目を付け、西国方面への進出を目指すようになり、
宋人 周新の船が来航すると、院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとした
<六波羅>
平正盛が、一族のために供養堂(常光院)を建立し、その子 平忠盛が六波羅邸を置き、ここを武家の拠点とする
平氏政権の中心の地となり、その後も、平氏一門の軍事力の拠点として残り、最盛期には3200を越える武家屋敷があった
<八坂神社>
拝殿の東方に、高さ約2.4mの六角型石燈篭「忠盛燈籠」がある
雨の夜、燈籠に灯を入れようとしていた僧侶を怪物に見まちがい驚く白河上皇を、
お伴していた平忠盛が沈着冷静に見定め対処したという故事がある
<六波羅蜜寺>
平忠盛が、六波羅蜜寺の塔頭に軍勢を持ち、平清盛・平重盛など、広大な境域内に5200余りの平家一門の邸館が栄えた
<得長寿院跡>
得長寿院は、平忠盛が建立した、鳥羽上皇の御願寺
白河天皇が造営した白河泉殿に付随する御堂の一つとされる