徳川家康(とくがわいえやす)(Ieyasu Tokugawa)

戦国時代の武将・戦国大名、江戸幕府の初代征夷大将軍

生年:1542年(皇紀2202)天文11年12月26日寅の刻(午前4時頃)
没年:1616年(皇紀2276)元和2年4月17日巳の刻(午前10時頃)
享年:75

幼名:竹千代(たけちよ)
改名:松平元信(まつだいらもとのぶ)・松平元康(まつだいらもとやす)
通称:次郎三郎

父親:松平広忠(三河国松平氏の第8代当主)
母親:お大(伝通院)(水野忠政の娘)

三英傑の一人

出身:三河国岡崎城
お墓:久能山・日光東照宮

 徳川家康(とくがわいえやす)は、戦国時代の武将・戦国大名、江戸幕府の初代征夷大将軍

 豊臣秀吉の全国統一に尽力し、関ヶ原合戦に勝ち、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下を統一する

 伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、二条城を築城し京都での居場所とした

【徳川家康の経緯】

【徳川家康のゆかりの地】

 <朝日神社
 徳川家康が祭神として祀られている

 <二条城
 徳川家康が征夷大将軍の宣下を受けたときに、上洛時の宿所や京都の警衛のために築城される

 <伏見城
 豊臣秀吉のブレーンとして過ごしたところ
 徳川家康が、勅使から征夷大将軍の宣下を受けたところ

 <東本願寺
 本願寺第十二代 教如が、徳川家康から本願寺の東に寺領を与えられ、本願寺を二つに分けて建立される
 豊臣秀吉が、本願寺方広寺豊国神社豊国廟と東西に並べて神格化しようとしたのを防ぐために分断したものといわれる

 <家康伊賀越えの道
 本能寺の変のときに、堺にいた徳川家康は、山城国南部から伊賀を超えて三河国へ逃亡した

【その他】

 <方広寺鐘銘事件>
 豊臣秀頼豊臣秀吉の遺志を継いで方広寺大仏を再建する
 徳川家康は、その梵鐘の銘文「国家安康 君臣豊楽」が、「家康の名を分断し、豊臣を君主とするもの」だと異議を唱え、
豊臣氏の破滅に導いた

 <以心崇伝
 徳川家康の外交・寺社政策のブレーンとして重用され、「黒衣の宰相」と称される僧
 キリスト教の禁止や、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度の制定に関わる
 南禅寺塔頭 金地院を再興し、「以心崇伝」とも称される

 <家紋「三ッ葉葵」
 上賀茂神社の神紋「二葉葵」に由来するとして篤く信仰された

 <葵使
 上賀茂神社から、フタバアオイを徳川家に献上していた遣い


【京都検定 第1回3級】

15.徳川家康の側近であった石川丈山が、隠居所として建てた草庵に始まる寺院はどこか?

【京都検定 第2回3級】

【京都検定 第3回3級】

【京都検定 第5回3級】

【京都検定 第9回3級】

【京都検定 第13回3級】

【京都検定 第14回3級】

【京都検定 第15回3級】

【京都検定 第17回3級】

【京都検定 第18回3級】

【京都検定 第20回3級】

【京都検定 第22回3級】

【京都検定 第1回2級】

【京都検定 第4回2級】

【京都検定 第6回2級】

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【京都検定 第9回2級】

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【京都検定 第12回2級】

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