幕末維新(ばくまついしん)は、
1853年(皇紀2513)嘉永6年6月、マシュー・ペリー率いるアメリカの黒船艦隊の来航から、
1866年(皇紀2526)慶応2年10月3日、二条城にて大政奉還が行われ、
1868年(皇紀2528)慶応4年/明治元年、戊辰戦争により江戸幕府勢力が一掃され、「明治」と改元されるまで
京都には、全国から、勤皇と佐幕、開国と攘夷と、それぞれの熱き思いを持った志士たちが集まり、
論議・壮絶な争いを繰り返し、新しい政治勢力を生み出させた
ペリー艦隊来航に影響され
「攘夷論」「開国論」に、「尊王論」「倒幕論」「佐幕論」などが加わり政治的意見が飛び交い、
それを巡って暗殺まで横行した
<尊皇攘夷>
諸外国に立ち向かい、天皇を中心として権力体制を強化しようとした
「尊攘派」と略される
土佐藩、長州藩、薩摩藩の一部藩士、過激派公卿が倒幕を目指していた
<尊皇(尊王)>
天皇を中心とした権力の強化を図った新体制を目指したもの
倒幕による新体制を目指していたのではなく、幕藩体制強化のために天皇の存在を利用しようとした動きもあった
<攘夷>
開国や貿易を迫ってくる夷(い)を討ち攘(はら)うこと
<開国論>
国を解放して、欧米諸国の先進的な思想・技術を取り入れることで、発展を図ろうとするもの
佐久間象山らが説く
<公武合体>
公家(朝廷)の伝統的な権威と、武家(江戸幕府)を結びつけて、幕藩体制の強化を図ろうとするもの
佐久間象山、岩倉具視、後藤象二郎、薩摩藩らが、公武合体を目指していた
<佐幕>
江戸幕府による幕藩体制の強化を図ろうとするもの
新選組や会津藩、土佐藩などが、江戸幕府を支持していた
<京都守護職>
江戸幕府は、京都の治安を維持する名目で京都守護職に会津藩藩主の松平容保を任命し、
その本陣を金戒光明寺に置いた
<伏見奉行所>
御所の警護、西国大名の監視、伏見港の監視、伏見の民政を担っていた
鳥羽・伏見の戦いのときに、新選組が伏見奉行所を陣取ったため、薩摩藩・長州藩との激戦となり焼失した
<浪士組(ろうしぐみ)>
1862年(皇紀2522)文久2年
浪士組(ろうしぐみ)が、将軍 徳川家茂の上洛に際する露払いとして、京都の治安を維持する名目で江戸幕府により結成される
<新選組>
浪士組が京都を離れたあと、
近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、 あくまでも将軍警護のための京都残留を主張し、
金戒光明寺に本陣を置く京都守護職であった会津藩藩主の松平容保に配下に置かれ、
京都に潜伏する過激派尊皇攘夷論者の取り締まりや、京都の治安維持を目的に活動した
大政奉還後は、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った
<寺田屋事件>
寺田屋は、伏見区南浜町にある元船宿
1862年(皇紀2522)文久2年4月23日
公武合体を進める尊皇派薩摩藩の島津久光(薩摩藩藩主の父親)が、過激な同藩尊皇派の同士を粛清した事件
<八月十八日の政変>
1863年(皇紀2523)文久3年8月18日
会津藩、薩摩藩などの公武合体派が、
尊皇攘夷派の長州藩や過激派公家などを京都の政治の中枢から追放した宮中クーデタ
<枡屋事件>
枡屋は、西木屋町四条小橋上ル真町の炭薪商
1864年(皇紀2524)元治元年6月5日
長州藩など倒幕派にアジトを提供していた枡屋の古高俊太郎が、新選組らに捜索を受け逮捕された事件
<池田屋騒動>
池田屋は、三条小橋の旅籠
1864年(皇紀2524)元治元年6月5日
池田屋で古高俊太郎の奪還の会合のために潜伏していた長州藩の尊皇攘夷過激派を新選組が襲撃し、
多数の死傷者と逮捕者を出した
この池田屋騒動をきっかけに蛤御門の変(禁門の変)が引き起こされたといわれる
<蛤御門の変(禁門の変)>
現在の京都御苑の西側に位置する蛤御門
1864年(皇紀2524)元治元年7月19日
池田屋騒動をきっかけに、打撃を受けた長州藩の強硬派が挙兵、
約3000名の兵士が上洛し、蛤御門付近で御所を守る薩摩藩、会津藩藩士など幕府軍と激戦になる
長州藩軍は敗戦し、京都の市街地の約半分が焼失してしまった(「どんどん焼け」「鉄砲焼け」といわれる)
<寺田屋事件>
伏見区南浜町にある元船宿の寺田屋
1866年(皇紀2526)慶応2年1月23日
寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を、幕吏(伏見奉行配下の捕り方)が襲撃する
坂本龍馬は、寺田屋の養女のお龍(後に坂本龍馬の妻となる)の機転により、危うく何を逃れ、
しばらくの間、西郷隆盛の勧めで鹿児島に潜伏することになる
<大政奉還>
1867年(皇紀2527)慶応3年10月3日
土佐藩の山内容堂、後藤象二郎が、徳川慶喜に大政奉還の建白書を提出し、
徳川慶喜は二条城会議で大政奉還の上奏文の提出を決定した
翌10月14日
江戸幕府征夷大将軍 徳川慶喜が朝廷(天皇)に、二条城にて大政(統治権)と征夷大将軍職の返上を申し出る
朝廷が上奏文を許可することで大政奉還が成立した
<近江屋事件(おうみやじけん)>
河原町通蛸薬師(たこやくし)の醤油屋の近江屋
1867年(皇紀2527)慶応3年11月15日
薩長同盟と大政奉還の立役者だった土佐藩・海援隊の坂本龍馬と盟友 中岡慎太郎が、近江屋で京都見廻組の襲撃を受ける
坂本龍馬は、そこで即死したといわれる
(お墓には、翌16日に闘死と記されている)
中岡慎太郎は、全身に刃傷を負い、数日後に死亡する
四条河原町を上がった商店街の店先に「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石碑が立っている
<戊辰戦争(ぼしんせんそう)>
1868年(皇紀2528)慶応4年(戊辰の年)
薩摩藩・長州藩の出身者が主体となった明治新政府が、江戸幕府勢力を一掃した内戦
<鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)>
1868年(皇紀2528)慶応4年1月3日〜6日
京都南部の鳥羽・伏見で、旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争の発端となる戦いが起こる
大政奉還をした徳川慶喜は、軍事的に京都の封鎖を試みる
旧幕府軍の主力兵が鳥羽街道を進み、会津藩・桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進み、そこで軍事的衝突が起こる
旧幕府軍は、徳川慶喜の側近の老中の稲葉正邦の淀藩(伏見区)を頼って、淀城で建て直しを図ろうとする
しかし、淀藩は、新政府と戦う意思がなく、城門を固く閉じ入城を拒まれた15,000人の幕府軍は5,000人の新政府軍に敗れてしまう
5日、明治天皇が、仁和寺宮嘉彰親王に錦の御旗を与え、新政府軍が官軍となる
これにより様子見をしていた諸藩が、新政府軍につき、旧幕府軍の劣勢が決定的になった
大坂城にいた徳川慶喜は、大阪湾から幕府軍艦 開陽丸で江戸に退却していく
<維新三傑>
桂小五郎
西郷隆盛
大久保利通
<その他>
有馬新七
井伊直弼
伊東甲子太郎
稲葉正邦
岩倉具視
後藤象二郎
小松帯刀
近藤勇 新選組
西郷従道
坂本龍馬 海援隊
佐久間象山
三条実萬
三条実美
島津久光
高杉晋作
武市瑞山
徳川家茂
徳川慶喜
中岡慎太郎 陸援隊
土方歳三
古高俊太郎
松平容保
村岡局
村山たか女
八木源之丞
山南敬助