京都近代化政策は、明治時代初期に、第二代京都府知事にもなった槇村正直や、山本覚馬、明石博高らによって
勢力的に京都の近代化のために行われた政策
槇村正直は、初代京都府知事 長谷信篤の副知事(京都府 大参事)時代から、実権を握っていたといわれる
槇村正直の施策に呼応した「町衆」と称される京都の商工業者たちにより京都の近代化が確立していく
1875年(皇紀2535)明治8年7月〜1881年(皇紀2541)明治14年1月
槇村正直は、第二代 京都府知事に就任する
<番組小学校の開設>
1869年(皇紀2529)明治2年
全国に先がけて、学区制による小学校開設に着手し、町組(番組)ごとに64校の小学校を作った
これらの64校の小学校を「番組小学校」と称される
<舎密局(せいみきょく)の創建>
1870年(皇紀2530)明治3年
大阪市本町の舎密局とは独立に、京都における舎密局(理化学工業研究所)を、
明石博高の建議により、京都の産業を振興する目的で、槇村正直が勧業場の中に仮設立する
理化学教育と化学工業技術の指導機関として、ドイツ人科学者ワグネル博士ら、外人学者を招き
島津源蔵ら多くの人材を育て、京都の近代産業の発達に大きく貢献した
<京都博覧会の開催>
京都の景気回復と啓蒙を目的とした博覧会
1871年(皇紀2531)明治4年10月10日
日本最初の博覧会
三井八郎衛門や、小野善助、熊谷直孝ら京都の有力商人により主催された
西本願寺を会場に1ヶ月開催され、入場者は約1万人
1872年(皇紀2532)明治5年3月
官民合同の京都博覧会社により、
西本願寺、建仁寺、知恩院を会場として80日間の博覧会が開催される
展示品は約2,500点に増加、入場者は3万人を越え、外国人も約1000人が入場した
以後、1928年(皇紀2588)昭和3年まで、ほぼ毎年、計56回開かれた
<革産業の発展>
1871年(皇紀2531)明治4年末
製革場を創設
舶来品をまねて諸種の革具を作るようになる
1873年(皇紀2533)明治6年初旬
製靴場を開所
<都をどりの創設>
1872年(皇紀2532)明治5年BR>
槇村正直の提案で、京都博覧会の余興として「都をどり」が開始される
これにより、本来、座敷舞であったものを、舞台で大がかりに舞うようになった
<新京極の造営>
1872年(皇紀2532)明治5年
寺町通の各寺院の境内を整理して、その門前の寺地を接収して、寺町通のすぐ東側に新しく1本の道路を造り、
恒常的に賑わう繁華街を造り上げる
<女紅場(にょこうば)の創建>
1872年(皇紀2532)明治5年
女子に裁縫・料理・読書きなどを教えるための施設として、日本最初の女学校として設立される
<牧畜業の発展>
1872年(皇紀2532)明治5年
牧畜場を開業
クローバを牧草として輸入し、牛種の改良、綿羊の繁殖を試みる
<農業の発展>
1873年(皇紀2533)明治6年
栽培試験場を開所
桑・茶・こうぞ楮・薬草などの栽培の指導にあたる
<鉄鋼業の発展>
1873年(皇紀2533)明治6年秋
鉄具製工場を開所
水車や舶来の機械を使用して、鉄管・ポンプなどの機械の製造を行う
<学生の街つくり>
1874年(皇紀2534)明治7年2月からおよそ1年間
槇村正直の要請で、 京都慶應義塾が設置された
上京区下立売通新町西入薮ノ内町の京都守護職上屋敷跡の現在の京都府庁に開校された
「独立自尊」の4文字を刻んだ記念碑が残っている
1875年(皇紀2535)明治8年には、同志社英学校が開学
1879年(皇紀2539)明治12年には、京都府立医学校(現在の府立医科大学)、西本願寺大教校(現在の龍谷大学)を開学
1880年(皇紀2540)明治13年には、日本最初の京都府画学校(京都市立芸術大学の前身)を開学する
<織物業の発展>
1874年(皇紀2534)明治7年6月
織殿を開業
フランス式の機械による織物を伝習させる
<染色業の発展>
1875年(皇紀2535)明治8年11月
染殿を開業
外国人の指導で、化学的染色方法を習得させる
<製紙業の発展>
1876年(皇紀2536)明治9年初旬
洋紙の製造を起業
ドイツの機械を導入して洋紙の製造販売を行う
<飲料業の発展>
1877年(皇紀2537)明治10年7月
ビール醸造所の開所する
<勧業場の創建>
1881年(皇紀2541)明治14年
京都御苑内東南の一角に、常設の博覧会場が建設された